真田幸村

さなだゆきむら

真田幸村

真田幸村|幸村は本名じゃない! 真田信繁の「腰痛とボヤキ」の真実

基本情報

名前
真田幸村
読み
さなだゆきむら
生没年
1567年頃〜1615年
時代
安土桃山時代〜江戸時代初期
立場・肩書
武将、真田信繁
主なゆかりの地
九度山、大坂城、大坂(大阪府)
代表的な出来事
九度山幽閉、大坂の陣
関連人物
真田昌幸、真田信之、徳川家康

01

「幸村」は後世のエンタメが作った名前

日本で最も有名な武将の一人ですが、彼が生きていた間に「幸村」と名乗ったことを示す史料は一つもありません。彼の手紙や公文書の署名はすべて「真田信繁(のぶしげ)」です。

「幸村」という名前が定着したのは、彼が死んだ数十年後に書かれた軍記物語(一種の歴史小説)などのエンターテインメント作品の中でのこと。あまりにも物語の中の「幸村」の活躍がカッコよかったため、本名を上書きして世間に広まってしまったのです。

「幸村」は後世のエンタメが作った名前
幽閉生活でボロボロの「おじいちゃん」

02

幽閉生活でボロボロの「おじいちゃん」

大坂の陣で劇的な活躍を見せる真田信繁ですが、その直前まで彼は和歌山県の九度山という村に14年間も流罪(幽閉)になっていました。

彼が九度山から親戚に宛てた手紙には、「すっかり老け込んでしまい、歯も抜け落ちてしまいました」「ヒゲも黒い部分は少ししか残っていません」「病気ばかりで辛い」という、悲壮感漂う強烈なボヤキが書き連ねられています。ゲームやアニメのような血気盛んな若者ではなく、心身ともに限界を迎えていた初老の男だったのです。

03

最後の輝き「日本一の兵」

そんなボロボロの信繁が、豊臣秀頼の呼びかけに応じて大坂城へ入ります。人生の最後に与えられた「死に場所」としての巨大なステージでした。

彼は真田丸と呼ばれる出城を築いて徳川軍を散々に打ち破り、夏の陣では家康の本陣に死ぬ気で突撃を仕掛け、家康に「もう自害するしかない」とまで覚悟させました。白髪で歯も抜けたおじさんが、戦国の最後に放った命がけの狂い咲き。それこそが、彼が400年経っても愛され続ける本当の理由です。

最後の輝き「日本一の兵」

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