明智光秀

あけち みつひで

明智光秀

明智光秀|日本一有名な裏切り者なのに、「なぜ裏切ったか」だけ分からない

基本情報

名前
明智光秀(あけち みつひで)
読み
あけち みつひで
生没年
生年不詳〜1582年(諸説あり)
時代
戦国時代〜安土桃山時代
立場・肩書
足利義昭・室町幕府周辺で政治活動を行い、のちに織田信長の重臣となった武将
主なゆかりの地
滋賀県大津市/京都府福知山市/京都府京都市
代表的な出来事
ずっと信長の部下だった? 実は人生の後半だけ
関連人物
織田信長、細川ガラシャ、羽柴秀吉

01

ずっと信長の部下だった? 実は人生の後半だけ

明智光秀といえば、「織田信長の家臣」という肩書きがあまりにも有名です。ドラマや小説では、信長から理不尽にいじめられ、恨みを募らせて裏切る人物として描かれることもあります。ところが、そのイメージだけで人生をたどろうとすると、大事な前半が消えてしまいます。

光秀が信長との関係を深める以前には、足利義昭や室町幕府周辺で政治的な活動をしていた時期があります。義昭と信長の双方に関わる時期を経て、その後、信長のもとで重要な立場へ進んでいった人物なのです。

つまり、「無名だった光秀を信長が拾い、一気に出世させた」という単純な話ではありません。すでに別の政治の世界にいた光秀が、信長とも関係を持つようになった。福知山市の資料でも、信長と関係した時期は約15年と整理されています。前半生には不明点が多く、生年も確定していませんが、人生全体を「ずっと信長の人」で片付けるのは無理があります。

しかも、信長のもとで低く扱われていただけの人物でもありません。坂本城を拠点にし、丹波攻略などの重要な仕事を任され、その働きを高く評価されていました。「いつもいじめられていたから」という一本の線だけでは、二人の関係を説明できないのです。

すでに政治の世界に関わっていた人が、信長からも重要な仕事を任され、最後にはその相手を本能寺で討つ。最後の事件が有名すぎて、それ以前の人生まで「信長の家臣だった人」に見えてしまう。光秀の不思議さは、裏切った瞬間よりも前から始まっています。

ずっと信長の部下だった? 実は人生の後半だけ

02

「三日天下」って言うけど、計算合ってなくない?

光秀を語る上で欠かせないのが「敵は本能寺にあり!」という名ゼリフと、すぐに豊臣秀吉に倒されてしまったことを揶揄する「三日天下(みっかてんか)」という言葉です。

まず「敵は本能寺にあり」という名ゼリフですが、光秀がその場で本当に叫んだと確認できる同時代の記録は知られていません。後世の読み物で広まった、いわば「キメ台詞」としての光秀像です。

さらに妙なのが「三日天下」です。本能寺の変が起きたのは天正10年(1582年)6月2日。光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れたのは6月13日です。いずれも当時の暦の日付です。2日から13日。……どう計算しても、文字どおり3日で終わったわけではありません。

なぜ「三日」と呼ばれるようになったのかについては諸説あります。「三日天下」は、ごく短い間しか権力を保てなかったことを表す言葉として受け取る必要があります。少なくとも、本能寺から山崎までの実際の日数は約11日。その間、光秀は京都を押さえ、味方を集めるための手紙を出すなど、必死かつ現実的な事後処理に奔走していました。

「三日天下」って言うけど、計算合ってなくない?

03

そこまで分かるのに、「動機」だけ分からない

結局のところ、光秀について一番面白いのは「そこまで分かっているのに、一番大事なことだけが分からない」という歴史のバグのような状態です。

光秀は領地である福知山では、町づくりや地子銭の免除などの善政を行った領主として、今も慕われています。本人の手紙や家中のルールも残り、本能寺の変の直前には愛宕で連歌の会に参加するなど、その足取りをたどれる記録もあります。

それなのに、たったひとつ。 「なぜ、あの日、信長を討ったのか」という動機だけが、見事にすっぽりと抜け落ちているのです。

怨恨だったのか、天下への野望だったのか。四国政策が関係したのか、朝廷や足利義昭との関係が背景にあったのか。現在までさまざまな説が唱えられていますが、未だに「これだ」という正解は出ていません。

日本史を変えるほどの謀反を実行したのに、「なぜやったのか」という一番重要な説明だけを、私たちが決着をつけられる形では残してくれなかった。誰を、いつ、どこで襲ったかは分かる。なのに「なぜ?」だけが分からない。この圧倒的な「分からなさ」こそが、明智光秀という人物が今も私たちを惹きつける大きな理由なのです。

そこまで分かるのに、「動機」だけ分からない

04

死んだはずなのに、今度は家康の隣でフィクサーやってる?

本能寺の変の「動機」という最大の謎を残したまま、光秀は山崎の戦いで敗れ、敗走中に命を落としたとされています。落ち武者狩りで竹槍に刺されたという話も伝わっています。しかし、光秀の謎はこれだけでは終わりません。後世になると、「そもそもあの時、本当に死んだのか?」という都市伝説まで生まれてしまうのです。

それが、「光秀は生き延びて、のちに徳川家康の側近となった僧・南光坊天海(なんこうぼうてんかい)になった」という説です。ここからは、史実として確認された話ではなく、都市伝説の世界です。

天海は実在の僧侶で、徳川家康・秀忠・家光から深く帰依され、日光や寛永寺に大きな足跡を残した人物です。その重要人物に、「実は生き延びた光秀だったのでは?」という話が結び付けられました。

「明智平」という地名や、日光で光秀の家紋・桔梗を連想させる意匠があるという話など、さまざまなものが“証拠らしきもの”として語られてきました。ただし、ここからが都市伝説の面白いところです。

光秀と天海が同一人物だったことを裏付ける、決定的な史料は確認されていません。

光秀は生年すらはっきりせず、天海にも前半生など分からない部分があります。つまり、「分からない人」と「分からない人」の空白をつなげたら、とんでもなく魅力的な物語ができてしまったわけです。

確かな証拠はない。それでも「もしかして……」が消えない。本能寺を起こした理由が分からない。最期にも伝承が残る。そして最後には「死んだあと家康のそばにいたのでは?」とまで言われる。

明智光秀、謎を残しすぎです。

死んだはずなのに、今度は家康の隣でフィクサーやってる?

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