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中国から「日本国王」と認められる
足利義満は、金閣寺(正しくは鹿苑寺)を建てた派手好きな将軍として有名ですが、外交においても破格の扱いを受けていました。 彼は明(中国)の皇帝と正式な貿易(日明貿易)を始めるため、自ら「日本国王 臣源」と名乗り、中国の家臣として挨拶の手紙を送りました。これに対して明の皇帝も義満を「日本国王」として正式に認定しました。天皇を差し置いて、武士のトップが外国から「日本の王様」としてお墨付きをもらった瞬間です。

あしかがよしみつ
足利義満
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足利義満は、金閣寺(正しくは鹿苑寺)を建てた派手好きな将軍として有名ですが、外交においても破格の扱いを受けていました。 彼は明(中国)の皇帝と正式な貿易(日明貿易)を始めるため、自ら「日本国王 臣源」と名乗り、中国の家臣として挨拶の手紙を送りました。これに対して明の皇帝も義満を「日本国王」として正式に認定しました。天皇を差し置いて、武士のトップが外国から「日本の王様」としてお墨付きをもらった瞬間です。
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義満の権力はとどまるところを知らず、歴史学者の間では「義満は将軍にとどまらず、自分の血筋を天皇にして(あるいは自分が天皇になって)皇室を乗っ取ろうとしていたのではないか」という「皇位簒奪(こういさんだつ)説」が長年議論されてきました。 その根拠として、彼が天皇と同じような儀式を行い、妻を「皇太后(天皇の母)」の扱いにし、自分の息子(義嗣)を天皇の跡継ぎのように振る舞わせていたことなどが挙げられます。確実なエビデンスはありませんが、当時の人々がそう疑うほど、彼の権力は天皇を凌駕していたのです。
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しかし、もし義満が天皇家の乗っ取りを企てていたとしても、その計画は未遂に終わりました。1408年、絶頂期にあった義満は突然の病(一説には暗殺説もあるが推測の域を出ない)であっけなくこの世を去ってしまったからです。 義満の死後、朝廷から彼に対して「太上天皇(上皇)」という名誉ある称号が贈られそうになりましたが、跡を継いだ第4代将軍・足利義持(義満と不仲だった息子)が「そんな称号は武士には不要だ」とあっさりと拒否してしまいました。強大すぎる権力者の野望は、一代限りで霧散したのです。
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