橘逸勢

たちばなのはやなり

橘逸勢

橘逸勢|歴史に名を残す文化人は、なぜ怨霊にならなければならなかったのか。政治の裏面工作で無実の罪を着せられた天才書家の、あまりにも理不尽な最期。

基本情報

名前
橘逸勢
読み
たちばなのはやなり
生きた時代
782年〜842年
生前の立場
平安時代前期
主な伝承地・ゆかりの地
貴族、能書(三筆)
死・怨霊化の経緯
平安京、遠江国
祟り・伝承
承和の変、流罪途中の死、御霊信仰
区分
恒貞親王、伴健岑、嵯峨天皇

01

史実:エリート文化人の突然の転落

橘逸勢(たちばなのはやなり)は、遣唐使として空海らとともに唐(中国)へ渡り、その見事な書道と教養で帰国後も朝廷で活躍した超エリート文化人でした。

しかし842年、朝廷を揺るがす「承和の変(じょうわのへん)」が起きます。皇位継承をめぐる争いの中で、藤原良房という権力者が「橘逸勢らが謀反を企てている!」と告発したのです。逸勢の筆記や書物が証拠として押収されましたが、歴史学的には、藤原氏が他氏族を排除するために仕掛けた完全な「でんっち上げの罠」であったとされています。

史実:エリート文化人の突然の転落

02

拷問と、流罪地へ向かう途中の客死

文化人であり、武力によるクーデターなど起こすはずもない逸勢でしたが、厳しい取り調べと拷問(鞭打ちなど)を受け、ついに「謀反人」として伊豆国への流罪が決定します。

高齢で身体もボロボロだった彼は、京都から伊豆へ護送される過酷な旅に耐えられませんでした。遠江国(現在の静岡県浜松市周辺)の板築(ほんづき)という宿場で病に倒れ、無念の涙を流しながら息を引き取りました。

拷問と、流罪地へ向かう途中の客死

03

怨霊伝承:祇園祭のルーツを生んだ祟り

無実の罪で死んだ天才文化人の怨念は、残された京都の人々に強烈な恐怖を与えました。

彼の死後、京都では疫病が蔓延し、天変地異が相次ぎます。「橘逸勢の怨霊が祟っている」と信じた朝廷は、863年に神泉苑という庭園で「御霊会(ごりょうえ)」という大規模な鎮魂の儀式を行いました。この怨霊を鎮めるためのお祭りが、現代まで続く京都の夏の風物詩「祇園祭(ぎおんまつり)」のルーツの一つとなっています。美しい字を書いた彼の手は、死後、疫病を操る見えない恐怖の手として畏れられたのです。

怨霊伝承:祇園祭のルーツを生んだ祟り

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