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史実の最期:右手に剣、左手に法華経
歴史上の怨霊と呼ばれる人々の多くは、無実の罪で殺されたり、絶望の中で受動的に死んでいったりした人物です。しかし、後醍醐天皇は違いました。
軍記物語『太平記』に描かれた彼の最期は壮絶です。病に倒れた彼は、死の床にあっても京都への帰還(足利尊氏の討伐)を諦めず、なんと「右手に剣(御剣)を握り、左手に法華経を持ったまま」息を引き取ったと『太平記』は描きます。これは軍記物語の表現であり、同時代の確定記録としてではなく、後世に強い執念の象徴として読まれています。


ごだいごてんのう
後醍醐天皇
01
歴史上の怨霊と呼ばれる人々の多くは、無実の罪で殺されたり、絶望の中で受動的に死んでいったりした人物です。しかし、後醍醐天皇は違いました。
軍記物語『太平記』に描かれた彼の最期は壮絶です。病に倒れた彼は、死の床にあっても京都への帰還(足利尊氏の討伐)を諦めず、なんと「右手に剣(御剣)を握り、左手に法華経を持ったまま」息を引き取ったと『太平記』は描きます。これは軍記物語の表現であり、同時代の確定記録としてではなく、後世に強い執念の象徴として読まれています。

02
さらに恐ろしいのは、彼が残した遺言です。
「私の遺体は京都の方角(北)に向けて埋葬せよ。私が死んで骨になり、苔が生えても、魂は常に朝敵(足利尊氏ら)を睨みつけ、必ず滅ぼしてやる」。
多くの怨霊が「死んだ後に祟った」と後世の人々に恐れられたのに対し、後醍醐天皇は「私が自ら怨霊となってお前たちを呪い殺す」と生前に堂々と宣言して死んでいったのです。その圧倒的な執念は、敵である室町幕府を底知れぬ恐怖に陥れました。

03
後醍醐天皇の崩御後、足利尊氏は、敵対した後醍醐天皇の菩提を弔う寺として天龍寺を建立しました。「あの天皇が祟らないはずがない」と震え上がった尊氏は、敵であるはずの後醍醐天皇の怨霊を鎮めるため、莫大な予算を投じて京都に「天龍寺」という巨大な寺を建立しました。
さらに、その建設資金を稼ぐために「天龍寺船」という貿易船まで中国(元)へ派遣しています。最強の武士たちが、死んだ一人の天皇の執念にどれほど怯えていたかがわかる、歴史的にも非常にダイナミックな鎮魂の記録です。

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