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渾身の写経を送ったら「呪いが入ってそうだから」と突き返される
崇徳天皇の人生の歯車が大きく狂ったのは、「保元の乱(ほうげんのらん)」という身内の権力闘争でした。 彼はこの戦いで、弟である後白河天皇の勢力に敗北し、讃岐国(現在の香川県)へと島流しにされてしまいます。天皇経験者が流罪になるのは、約400年ぶりの大事件でした。
讃岐に流された崇徳天皇は、仏教に深く帰依し、戦いで亡くなった人々の供養と、自分自身の反省、そして極楽往生を願って、お経(五部大乗経)を書き写し始めたと伝えられます。三年もの歳月をかけてこの写経を完成させ、都の寺に納めてもらおうと、京都へ送ったというのです。香川県立図書館の資料でも、京都の安楽寿院への奉納を願ったものの、許されなかったと紹介されています。
元天皇が身を慎み、三年がかりで書いた渾身の写経。普通なら「そこまで反省しているなら……」と受け取りそうなものですが、語り継がれる朝廷側の対応は冷酷でした。「いや、これ絶対に呪いがこもってるでしょ」と疑われ、なんとその写経は受け入れられず、讃岐へ突き返されたというのです。
心を込めて書いたお経を、着払いで突き返されるような屈辱。 崇徳天皇の怒りと絶望は、後世の物語の中で、ここから取り返しのつかない方向へと向かっていきます。



