大友皇子(弘文天皇)

おおとものおうじ(こうぶんてんのう)

大友皇子(弘文天皇)

大友皇子(弘文天皇)|死後1200年目の名誉回復。大友皇子の長すぎる祟り伝説

基本情報

名前
大友皇子(弘文天皇)
読み
おおとものおうじ(こうぶんてんのう)
生きた時代
672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗れて自害した
生前の立場
天智天皇の長男
主な伝承地・ゆかりの地
672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗れて自害した
死・怨霊化の経緯
672年の壬申の乱で叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗れて自害した
祟り・伝承
長らく怨霊として恐れられ、明治時代になってから「弘文天皇(こうぶんてんのう)」という称号が贈られた
区分
歴史上の人物・怨霊伝承

01

壬申の乱での非業の最期

父・天智天皇の死後、大友皇子は国のトップに立つはずでした。しかし、叔父の大海人皇子が反旗を翻し、古代日本最大の内乱「壬申の乱」が勃発します。大友皇子は近江朝廷軍を率いて戦いますが、圧倒的な兵力を前に敗北し、首をくくって自害するという非業の最期を遂げました。

壬申の乱での非業の最期

02

怨霊化と「首塚」の伝承

敗者の死は、古来より「祟り(怨霊)」として恐れられました。大友皇子の首は敵の手に渡ったとされますが、彼の首を密かに葬ったとされる「首塚」の伝説が千葉県など関東地方にも残っています。勝者に逆らう強大な怨念が、遠く離れた地域にまで恐怖と信仰を生み出したのです。

怨霊化と「首塚」の伝承

03

明治になってからの「天皇」認定

彼が死んだ後、勝者側は彼を天皇として認めませんでした。しかし、1200年以上もの時が流れた明治時代、「やはり彼は天皇の位についていたはずだ」と再評価され、明治政府から正式に「弘文天皇」という称号(諡号)が贈られました。日本の歴史上、最も遅く名誉回復された悲劇の怨霊です。

明治になってからの「天皇」認定

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