雷と梅を背にした菅原道真

すがわら の みちざね

菅原道真

菅原道真|恐怖の日本三大怨霊から学問の神様へ

基本情報

名前
菅原道真(すがわら の みちざね)
読み
すがわら の みちざね
生きた時代
平安時代前期
生前の立場
超エリート学者、右大臣(当時の政治のトップクラス)
主な伝承地・ゆかりの地
太宰府天満宮(福岡県)、北野天満宮(京都府)など
死・怨霊化の経緯
ガリ勉ではない。弓も百発百中の「超ハイスペック官僚」
祟り・伝承
朝廷の「ごめんなさい」が止まらない。死後に爆速で出世する
区分
三大怨霊

01

ガリ勉ではない。弓も百発百中の「超ハイスペック官僚」

道真と聞くと、「机に向かってひたすら勉強していたガリ勉タイプ」を想像するかもしれません。確かに菅原家は代々学者の家系であり、道真自身も当時の国家試験に優秀な成績で合格した超エリートです。しかし、彼の実力は机の上だけにとどまりませんでした。

生前の道真が残した詩文集『菅家文草(かんけぶんそう)』には、若い頃の驚くべきエピソードが記されています。ある時、道真は都良香(みやこのよしか)という人物の邸宅に招かれ、弓を射るよう勧められました。すると道真は、百発百中で的を射抜いてみせたというのです。

学問のトップでありながら、武芸にも秀でていた道真。天皇からの信頼も厚く、異例のスピード出世で「右大臣」という政治のトップクラスにまで上り詰めます。

しかし、この「ハイスペックすぎて天皇に可愛がられる」という状況が、周囲の貴族たち(特に藤原氏)の強烈な嫉妬を買うことになります。「あいつ、ちょっと調子に乗ってないか?」とあらぬ疑いをかけられ、道真は九州の大宰府へと左遷されてしまいました。

そして、失意のまま59歳でこの世を去ります。ここから、歴史に残る大パニックが始まります。

ガリ勉ではない。弓も百発百中の「超ハイスペック官僚」

02

朝廷の「ごめんなさい」が止まらない。死後に爆速で出世する

道真が亡くなった後、都(京都)では次々と異常事態が起きました。道真を左遷に追いやった中心人物である藤原時平が若くして病死し、天皇の跡継ぎも次々と亡くなります。さらには、疫病が流行り、深刻な干ばつが続きました。

当時の人々は、これを「道真の怨霊の仕業だ」と恐れました。

極めつけは延長8年(930年)の「清涼殿落雷事件」です。天皇がいる御所(清涼殿)に雷が落ち、道真の左遷に関わった貴族たちが直撃を受けて即死してしまったとされるのです。これにショックを受けた醍醐天皇も、数ヶ月後に崩御(亡くなること)してしまいました。

「これは間違いなく道真の祟りだ、怒っている!」とパニックになった朝廷は、ものすごい勢いで道真への「ごめんなさい」を始めます。

道真の罪を取り消すのはもちろん、死んでいる道真に対して次々と高い位(官位)を贈り続けたのです。左遷された時の「大宰権帥(だざいのごんのそち)」から、死後に「右大臣」へ戻され、さらに「正一位太政大臣(だじょうだいじん)」という臣下として最高の位まで上り詰めます。

死後90年経ってからトップに君臨する。怨霊としての影響力が規格外すぎました。

朝廷の「ごめんなさい」が止まらない。死後に爆速で出世する

03

雷神から学問の神へ。千年越しの壮大なジョブチェンジ

朝廷は道真の怒りを鎮めるため、彼を「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」という神様として手厚く祀ることにしました。これが北野天満宮などの始まりです。雷を落とした事件のインパクトから、道真はまず「恐ろしい雷神」として崇められました。

しかし、ただ怖がられていただけではありません。少し時間が経つと、貴族や学者たちの間で「そういえば、あの神様って生前はめちゃくちゃ頭が良くて、詩や文章の天才だったよね」という生前の実績がクローズアップされ始めます。実は平安時代の半ばには、すでに「文道の祖(学問・文芸の神)」として当時のインテリ層から熱烈にリスペクトされるようになっていたのです。

この「エリートたちの学問の神様」というポジションが、時代を下るごとに一般の人々にも親しみやすいものへと変化していきます。江戸時代になると、寺子屋(当時の学校)に道真の絵が飾られ、子どもたちが「字が上手くなりますように」と祈る対象へと広がっていきました。

自分を左遷した朝廷を恐怖のどん底に陥れた「日本最恐の怨霊」が、平安のインテリ層の信仰を経て、千年以上の時をかけて鉛筆を持った学生たちを優しく見守る「受験生の味方」になる。

日本の神様の中でも、これほど壮大で大成功したジョブチェンジを果たした例は他にありません。

雷神から学問の神へ。千年越しの壮大なジョブチェンジ

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