早良親王

さわらしんのう

早良親王

早良親王|死後に「天皇」とされた皇太子と、国家が恐れた祟り

基本情報

名前
早良親王(さわらしんのう)
読み
さわらしんのう
生きた時代
奈良時代末期(750〜785)
生前の立場
桓武天皇の弟・皇太子
主な伝承地・ゆかりの地
乙訓寺、淡路への移送路など
死・怨霊化の経緯
無実を訴えた絶食と死
祟り・伝承
朝廷自身が災厄を親王の霊と結び付けた
区分
1級怨霊

01

無実を訴えた絶食と死

785年、長岡京造営を主導していた藤原種継が暗殺されると、早良親王は事件への関与を疑われた。親王は乙訓寺に幽閉され、無実を訴えて食を断ったと伝えられる。

その後、淡路への配流が決まり、移送の途中で亡くなった。ここまでは政治事件として追える歴史であり、「怨霊になった」という話とは分けて考える必要がある。

無実を訴えた絶食と死

02

朝廷自身が災厄を親王の霊と結び付けた

親王の死後、桓武天皇の近親者の病や死が続いた。792年には皇太子の病について占いが行われ、早良親王の祟りが原因とされた記録がある。

これは現代的な意味で祟りが実在した証拠ではない。しかし当時の朝廷が、政治や病気を「死者の霊」と結び付けて理解していたことを示す重要な記録である。

朝廷自身が災厄を親王の霊と結び付けた

03

800年、「崇道天皇」と追号される

800年、早良親王には「崇道天皇」という追号が贈られた。皇位に就かなかった人物に天皇号を贈り、陵墓を整え、鎮謝を行うという対応は、朝廷がその霊を非常に重く扱っていたことを示す。

早良親王は、史実上の悲劇と御霊信仰の形成が重なる代表的な人物になった。

800年、「崇道天皇」と追号される

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