金閣寺

ほくざん ろくおんじ(きんかくじ)

金閣寺

金閣寺|金箔はただの飾りじゃない。足利義満が仕掛けた「天皇越え」の強烈なメッセージ

京都のシンボル「金閣寺」。実はその名前、正式名称ではないことをご存知ですか? さらに、あの眩いばかりの金箔は、ただの豪華な装飾ではありません。天皇や公家たちに対する、室町幕府3代将軍・足利義満の「強烈なマウンティング」の証だったのです。建物の階層に隠された、野望と政治的メッセージを読み解きます。

基本情報

名称
北山 鹿苑寺(通称:金閣寺)
読み
ほくざん ろくおんじ(きんかくじ)
所在地
京都府京都市北区金閣寺町1
創建
応永4年(1397年)
宗派
臨済宗相国寺派
本尊
聖観音菩薩
主な見どころ
金閣(舎利殿)、鏡湖池、夕佳亭
ゆかりの人物
足利義満、夢窓疎石

金閣寺を、金箔はただの飾りじゃない。足利義満が仕掛けた「天皇越え」の強烈なメッセージという切り口から読み直します。

01

「金閣寺」というお寺は存在しない?

まず大前提として、「金閣寺」という名前の寺院は宗教法人として存在しません。正式名称は「鹿苑寺(ろくおんじ)」といいます。これは、足利義満の死後、彼の法号である「鹿苑院」から名付けられた禅寺です。私たちが「金閣」と呼んでいる黄金の建物は、鹿苑寺の境内にある「舎利殿(しゃりでん)」のこと。お釈迦様の遺骨(仏舎利)を祀るための建物です。境内全体を指す言葉ではないのですが、あまりにも舎利殿のインパクトが強いため、いつしか寺全体が「金閣寺」と呼ばれるようになりました。

「金閣寺」というお寺は存在しない?

「金閣寺」というお寺は存在しない?

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/kinkakuji

02

階層が示す残酷な身分制度と「武家の勝利」

金閣の最大の面白さは、3つの階層ごとに建築様式が全く異なる点にあります。これこそが、義満が仕掛けた政治的メッセージです。1階の「法水院(ほうすいいん)」は、公家(貴族)の住宅様式である「寝殿造」です。金箔は貼られず、白木がそのまま使われています。2階の「潮音洞(ちょうおんどう)」は、武士の住宅様式である「武家造」。ここから外壁に金箔が貼られます。3階の「究竟頂(くっきょうちょう)」は、中国風の禅宗寺院の様式「禅宗様」。ここも内外ともに金箔が貼られ、仏舎利が安置されています。つまり義満は、公家の様式(1階)を一番下に置き、その上に武家の様式(2階)を乗せることで「武士が貴族を支配する」というヒエラルキーを視覚的に表現したのです。そして最上階(3階)に自身が深く帰依する仏教を置きました。天皇や公家がこの金閣を見上げるとき、彼らは必然的に「武家の底辺に敷かれた自分たちの立場」を思い知らされるという、極めて挑戦的な建築だったのです。

階層が示す残酷な身分制度と「武家の勝利」

階層が示す残酷な身分制度と「武家の勝利」

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03

昭和の放火事件が生んだ「本来の輝き」

現在私たちが目にしている金閣は、室町時代のオリジナルではありません。昭和25年(1950年)に、見習い僧侶の放火によって全焼してしまいました(金閣寺放火事件)。三島由紀夫の小説の題材にもなった有名な事件です。現在の建物は昭和30年(1955年)に再建されたものですが、実はこの再建によって、金閣は「義満が本来意図した輝き」を取り戻しました。焼失前の金閣は金箔がほとんど剥がれ落ち、黒ずんだ木の骨組みが見える侘びた姿でした。再建時、そして昭和62年(1987年)の大修復において、漆の上から通常の5倍もの厚さの金箔(五倍箔)が約20万枚も貼られました。創建当時の義満は、日明貿易で蓄えた莫大な財力を見せつけるため、まさにこの現代の金閣のように、暴力的なまでに眩い黄金の楼閣を造り上げていたと考えられています。金閣は、日本の歴史上で最も豪華な「権力のプロパガンダ」なのです。

昭和の放火事件が生んだ「本来の輝き」

昭和の放火事件が生んだ「本来の輝き」

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/kinkakuji

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