西教寺

さいきょうじ

西教寺

Photo: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY 2.5

比叡山焼き討ちから復興を遂げた天台真盛宗の総本山と、明智光秀の静かなる墓所

滋賀県大津市坂本に所在する西教寺(さいきょうじ)は、全国に四百以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。聖徳太子が創建したと伝わる古刹であり、室町時代に真盛上人によって再興されました。 この寺院の歴史を大きく揺るがしたのが、元亀2年(1571年)の織田信長による「比叡山焼き討ち」です。比叡山の麓に位置する西教寺もこの時、織田軍の標的となって堂宇を全焼する壊滅的な被害を受けました。 しかし、その直後にこの地(坂本)の領主として赴任してきた明智光秀が、異例の厚遇をもって西教寺の復興に尽力しました。境内には光秀とその妻・煕子(ひろこ)、そして明智一族の墓所が残されており、「本能寺の変の謀反人」という世間のイメージとは異なる、信仰に厚い領主としての光秀の素顔を今に伝えています。 明智光秀らの尽力で再興された西教寺の本堂. 出典: 京都の桜と紅葉写真集

基本情報

ゆかりの人物
明智光秀、妻・煕子、真盛上人
主な見どころ
明智光秀公一族の墓、本堂(国指定重要文化財)、客殿、真猿(まさる)
創建
飛鳥時代(伝・聖徳太子創建)
名称
西教寺(さいきょうじ)
宗派
天台真盛宗(総本山)
所在地
滋賀県大津市坂本5丁目13-1
本尊
阿弥陀如来
読み
さいきょうじ
焼き討ちからの異例の復興支援と光秀の信仰

01

焼き討ちからの異例の復興支援と光秀の信仰

織田信長による比叡山焼き討ちによって、西教寺も完全に灰燼に帰しました。この作戦において実行部隊の中心にいたのが明智光秀です。焼き討ちの戦功によって近江国志賀郡(坂本)を与えられ、坂本城を築城した光秀は、自身の領地となった西教寺の惨状を目の当たりにしました。 光秀は、かつて自分が焼き討ちに関与した寺院であるにもかかわらず、西教寺の再興に多大な援助を行いました。寺領の寄進や建築資材の提供、職人の手配などを行い、本堂などの主要な堂宇を短期間で再建させたのです。 光秀がなぜこれほどまでに西教寺を庇護したのか。それは、荒廃した領内の民心を手なずけるための政治的な領国経営の一環であったと同時に、絶え間なく行われる殺戮に対する強い宗教的な懺悔と、真盛上人の教えに対する純粋な帰依があったと考えられています。

光秀と妻・煕子の深い絆を伝える明智一族の墓所Photo: Yanajin33 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

02

光秀と妻・煕子の深い絆を伝える明智一族の墓所

西教寺の境内奥には、明智光秀とその妻・煕子(ひろこ)、そして明智一族の墓所(供養塔)が静かに佇んでいます。煕子は光秀が美濃を追われて浪人生活を送っていた不遇の時代から彼を支え続けた糟糠の妻として知られています。 伝承によれば、貧しい時代に光秀が客人を招く際、煕子は自身の黒髪を売って酒宴の費用を工面したとされます。光秀はこの献身を生涯忘れず、戦国武将としては珍しく側室を持たずに煕子一人を愛し抜きました。 天正4年(1576年)、煕子は光秀の出世を見届けた後に病に倒れ、この西教寺に葬られました。本能寺の変ののち、山崎の戦いで敗死した光秀の首は別の場所に葬られましたが、後世の人々によって煕子の眠るこの西教寺に一族の供養塔が建てられ、夫婦は再び同じ場所で静かに眠ることとなったのです。

伏見城から移築された客殿と、魔よけの「真猿」

03

伏見城から移築された客殿と、魔よけの「真猿」

西教寺の建造物において注目すべきは、国指定重要文化財である本堂と、江戸時代初期に桃山城(伏見城)から移築されたと伝わる豪華な「客殿(きゃくでん)」です。客殿には狩野派による見事な襖絵が残されており、武家政権から寺院へと渡った桃山文化の華やかな意匠を間近で鑑賞することができます。 また、西教寺を歩くと屋根の上など各所に「猿」の彫刻や木像が置かれていることに気づきます。これは「真猿(まさる)」と呼ばれ、「魔が去る」に通じることから魔除けの守護神として信仰されています。 焼き討ちの際、西教寺で飼われていた一匹の猿が、鉦(かね)を鳴らして僧侶たちに危機を知らせたという伝説に由来しており、悲劇の歴史の中で生まれたユーモラスかつ信仰深い寺院独自のシンボルとなっています。

SAME CATALOG

同じ図鑑のほかの記事