南禅寺

ずいりゅうざん たいへいこうこくなんぜんぜんじ

南禅寺

南禅寺|「絶景かな」の矛盾と、境内にそびえるローマ風水路。伝統と革新の禅寺

石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と見得を切った南禅寺の三門。実は、彼が処刑された後に建てられたものだと知っていましたか? さらに境内を進むと、和風の寺院には似つかわしくない、巨大な古代ローマ風の「レンガ造りの水路」が突如現れます。伝統と革新がぶつかり合った、京都最大の異空間の謎を解き明かします。

基本情報

名称
瑞龍山 太平興国南禅禅寺
読み
ずいりゅうざん たいへいこうこくなんぜんぜんじ
所在地
京都府京都市左京区南禅寺福地町
創建
正応4年(1291年)
宗派
臨済宗南禅寺派(大本山)
本尊
釈迦如来
主な見どころ
三門、水路閣、方丈庭園
ゆかりの人物
亀山法皇、無関普門、石川五右衛門(伝説上)

南禅寺を、「絶景かな」の矛盾と、境内にそびえるローマ風水路。伝統と革新の禅寺という切り口から読み直します。

01

五右衛門は「三門」を見ていない? 歌舞伎が生んだ幻の絶景

南禅寺の入り口にそびえ立つ、高さ約22メートルの巨大な「三門(さんもん)」。歌舞伎『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の中で、大泥棒・石川五右衛門がこの楼上に上がり、「絶景かな、絶景かな」と春の京都を見下ろして見得を切る名シーンで有名です。しかし、史実と照らし合わせると、大きな矛盾が生じます。石川五右衛門が豊臣秀吉によって釜茹での刑に処されたのは、文禄3年(1594年)です。一方、現在私たちが登ることができる南禅寺の巨大な三門が建てられたのは、寛永5年(1628年)。藤堂高虎が「大坂の陣」で戦死した家臣を弔うために寄進したものです。つまり、五右衛門が処刑された時点では、この三門は影も形も存在していなかったのです。歌舞伎の作者が、後世に建てられた南禅寺のあまりにも立派な三門を見て、「大泥棒を立たせるならこの舞台しかない」と時代設定を無視して創作した、というのが真相です。

五右衛門は「三門」を見ていない? 歌舞伎が生んだ幻の絶景

五右衛門は「三門」を見ていない? 歌舞伎が生んだ幻の絶景

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/nanzenji

02

境内に突如現れる「ローマ風レンガ水路」の違和感

南禅寺の境内をさらに奥へ進むと、日本の寺院建築の常識を覆す異様な光景が目に飛び込んできます。赤いレンガで作られた巨大なアーチ橋、「水路閣(すいろかく)」です。古代ローマの水道橋を彷彿とさせるこの西洋建築が、なぜ格式高い禅寺の境内に鎮座しているのでしょうか。時は明治時代。東京遷都によって衰退していく京都を復活させるため、琵琶湖の水を京都に引く国家プロジェクト「琵琶湖疏水」が計画されました。この水路のルートが、どうしても南禅寺の境内を横切る設計になってしまったのです。

境内に突如現れる「ローマ風レンガ水路」の違和感

境内に突如現れる「ローマ風レンガ水路」の違和感

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03

反対を押し切った「京都復興」の熱意

当然、寺側や景観を重んじる人々からは大反対が起こりました。由緒ある禅寺の敷地に、最新技術とはいえ西洋風のレンガ造りの建造物を通すなど言語道断だというわけです。しかし、水路閣の設計を任された若き天才エンジニア・田辺朔郎は妥協しませんでした。彼は周囲の自然や景観に配慮しながらも、京都の産業革命に必要な水を運ぶという使命を貫き、明治23年(1890年)にこの美しいアーチを完成させました。当初は「景観破壊」と批判された水路閣も、100年以上の時を経てレンガが黒ずみ、苔生すことで、不思議と東山の自然や禅寺の風景に溶け込んでいます。今ではサスペンスドラマのロケ地や写真スポットとして、南禅寺に欠かせない景色となりました。絶対に変えられない「伝統」と、どうしてもやり遂げなければならない「近代化」。水路閣はその二つが激しく衝突し、見事に調和した結果なのです。

反対を押し切った「京都復興」の熱意

反対を押し切った「京都復興」の熱意

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