東大寺

とうだいじ

東大寺

東大寺|実は1200年前の姿そのままじゃない。壊れても、焼けても蘇った東大寺

修学旅行の定番・東大寺。あの巨大な大仏と大仏殿、実は「1200年以上前からそのまま残っている」わけではありません。大仏は地震で頭部が落ち、戦火にも遭い、大仏殿は二度焼失。それでも人々は何度も立て直してきました。現在の姿に刻まれた、奈良・鎌倉・戦国・江戸をまたぐ「復興の歴史」をたどります。

基本情報

名称
東大寺
読み
とうだいじ
所在地
奈良県奈良市雑司町406-1
創建
神亀5年(728)の山房(後の金鍾山寺)を源流とし、天平勝宝4年(752)に大仏開眼供養
宗派
華厳宗
本尊
盧舎那仏(るしゃなぶつ)
主な見どころ
大仏殿(金堂)、盧舎那仏、南大門、二月堂、法華堂(三月堂)など
ゆかりの人物
聖武天皇、光明皇后、良弁、行基、菩提僊那、重源、公慶など

東大寺を、実は1200年前の姿そのままじゃない。壊れても、焼けても蘇った東大寺という切り口から読み直します。

01

大仏の頭が落ちた。しかも一度では終わらなかった

東大寺の大仏は、天平勝宝4年(752)に開眼供養が行われました。しかし、巨大な大仏の1200年以上にわたる歴史は、決して平穏ではありません。斉衡2年(855)、大地震によって大仏の頭部が落下しました。その後修復されますが、さらに大きな災難が待っていました。治承4年(1180)、平重衡の軍勢による兵火で、大仏殿を含む東大寺の伽藍の大半が焼失します。復興の中心になったのが重源です。重源は養和元年(1181)に勧進職となり、後白河法皇や源頼朝らの援助も受けながら復興を進めました。大仏では頭部や左手などが補鋳され、文治元年(1185)には再び開眼供養が行われています。ところが、これで終わりではありません。永禄10年(1567)、三好・松永の争いによる兵火で東大寺は再び大きな被害を受け、大仏殿も焼失しました。大仏も損傷し、奈良国立博物館の資料によれば頭部は溶け落ちています。その後、大仏には補修が施され仮屋も造られましたが、その仮屋も大風で倒壊。大仏は100年近く風雨にさらされることになります。現在の大仏は、こうした災害と修復を何度も経験した姿です。だから、「奈良時代の大仏がそのまま残っている」と考えるのは正確ではありません。一方で、すべてが後世につくり直されたわけでもありません。東大寺によれば、現在の大仏にも主に腹部から脚、さらに台座にかけて奈良時代の部分が伝わっています。つまり目の前にある大仏には、奈良時代の当初部分と、その後の長い歴史の中で修復された部分が共存しているのです。「1200年前の大仏を見る」というより、1200年以上にわたって修復され続けてきた大仏を見る。そう考えると、同じ大仏が少し違って見えてきます。

大仏の頭が落ちた。しかも一度では終わらなかった

大仏の頭が落ちた。しかも一度では終わらなかった

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/todaiji

02

今でも巨大なのに、昔はもっと横にデカかった

大仏だけではありません。現在の大仏殿も、奈良時代の建物そのものではありません。奈良時代に創建された大仏殿は、治承4年(1180)の兵火で焼失。その後、重源らによって鎌倉時代に再建されますが、永禄10年(1567)の兵火で再び焼失しました。現在の大仏殿は、公慶らによる江戸時代の再建です。ここで面白いのが、その大きさです。現在の大仏殿は、正面約57メートル、奥行約50メートル、高さ約49メートル。これだけでも圧倒される巨大建築ですが、天平・鎌倉期の大仏殿は正面が11間、約88メートルもありました。現在は7間、約57メートル。つまり、現在の大仏殿は昔よりかなり横幅が狭いのです。東大寺によれば、江戸時代の再建では財政上の事情から、東西の幅を約6割に縮小。一方で、高さや奥行は創建時の規模をほぼ踏襲しました。さらに再建では、巨大建築ならではの別の問題もありました。巨大な木材をどうやって確保するか。柱には、複数の木材を組み合わせて一本の太い柱にする集成材が用いられました。しかし、柱と柱の間に架ける巨大な「虹梁(こうりょう)」には一本物の巨材が必要でした。奈良文化財研究所によれば、適した木がなかなか見つからず、全国に御触れを出して探した末、日向国、現在の宮崎県で巨木を確保したといいます。現在の大仏殿を見て、「よくこんな巨大な木造建築をつくったな」と思ったら、それで終わりではありません。実はあの建物は、巨大な材料をそろえること自体が難しくなった時代に、それでも何とか大仏を覆う建物を再建しようとした結果なのです。しかも、これだけ巨大なのに、昔より横幅は小さい。現在の大仏殿の大きさを知ったあとで「昔はもっと大きかった」と聞くと、奈良時代の東大寺がどれほど桁外れだったのかも見えてきます。

今でも巨大なのに、昔はもっと横にデカかった

今でも巨大なのに、昔はもっと横にデカかった

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/todaiji

03

なぜ、そこまでして何度も直したのか

地震で大仏の頭部が落ちる。戦火で大仏殿が焼ける。再建しても、また焼ける。大仏が長く風雨にさらされる。必要な資金も、巨大な木材も簡単には集まらない。それでも東大寺は、そのたびに復興されました。なぜ、そこまでして直したのでしょうか。その原点をたどると、奈良時代の大仏造立まで戻ります。聖武天皇が天平15年(743)に出した大仏造立の詔には、権力だけで巨大な仏像をつくるのではなく、大仏造立を願う人が「一枝の草、一把の土」でも協力したいのであれば、それを受け入れるという趣旨が記されています。実際、大仏造立では行基が民衆の力を集める役割を果たしました。そして、この「多くの人の力を集める」という形は、後世の復興にも現れます。鎌倉時代、重源は勧進職として復興に奔走しました。後白河法皇や源頼朝らの援助を受ける一方、東大寺再建のための資金や資材を集め、20年以上にわたって復興事業に力を注ぎました。さらに江戸時代には、公慶が立ち上がります。公慶は幕府に大仏修造を願い出るとともに、全国に広く協力を求め、大仏と大仏殿の復興を進めました。元禄5年(1692)には大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709)には現在の大仏殿の落慶供養が行われます。奈良時代の聖武天皇と行基。鎌倉時代の重源。江戸時代の公慶。時代も立場も違います。それでも東大寺の歴史を通して見ると、何かが壊れるたびに、一人では到底できない事業のために、多くの人の力を集める人物が現れていることに気づきます。東大寺が1200年以上残っている理由は、「丈夫だったから」だけではありません。むしろ、何度も壊れています。それでも、そのたびに直した人たちがいた。現在の大仏には奈良時代の部分と後世の修復が共存し、大仏殿は昔より幅を縮めながらも再建されています。だから東大寺は、単に「古いお寺」なのではありません。壊れても、次の時代の人が続きをつくったお寺。次に大仏を見上げるとき、「これは何年につくられた大仏なんだろう?」と考えてみると、答えが一つの年代では済まないこと自体が、東大寺の面白さなのかもしれません。

なぜ、そこまでして何度も直したのか

なぜ、そこまでして何度も直したのか

Photo: LEGACY_REFERENCE: /var/lib/are-iina/unpublished/temples/todaiji

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