本妙寺

ほんみょうじ

本妙寺

Photo: Hyppolyte de Saint-Rambert / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

本妙寺|加藤清正の遺言により、熊本城と同じ高さに築かれた日蓮宗の巨大な菩提寺

熊本県熊本市西区にある本妙寺(ほんみょうじ)は、肥後(熊本県)の領主であった戦国武将・加藤清正の菩提寺として知られる日蓮宗の寺院です。元々は清正の父・清忠の菩提を弔うために大阪で創建されましたが、清正が熊本城主となった際に現在の熊本へと移されました。 この寺院の最大の特徴は、市街地を見下ろす中尾山という小高い山全体を境内とする壮大なスケールと、清正の遺言によって特殊な場所に築かれた廟所(墓所)にあります。 胸を突くような急峻な石段を登った先に現れる浄池廟(じょうちびょう)の配置には、主君・豊臣秀吉への忠義と、自身が築いた熊本城への強い執着が込められています。また、近代の西南戦争の激戦地となりながらも貴重な宝物を守り抜いた、熊本の歴史と切っても切り離せない重要な信仰拠点です。

基本情報

ゆかりの人物
加藤清正、加藤清忠
主な見どころ
浄池廟、胸突雁木(石段)、本妙寺宝物館、頓写会
創建
1585年(天正13年)※熊本への移転は1600年頃
名称
本妙寺(ほんみょうじ)
宗派
日蓮宗(六条門流)
所在地
熊本県熊本市西区花園4丁目13-1
本尊
十界曼荼羅
読み
ほんみょうじ
熊本城と高さを合わせた清正の廟所「浄池廟」Photo: Hyppolyte de Saint-Rambert / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

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熊本城と高さを合わせた清正の廟所「浄池廟」

慶長16年(1611年)、加藤清正は50歳で病死しました。その遺骸は、彼の遺言によって本妙寺の裏手にある中尾山の山頂付近に設けられた「浄池廟(じょうちびょう)」に手厚く葬られました。 この浄池廟が造営された標高は、清正自身が築き上げた難攻不落の名城・熊本城の天守閣とほぼ同じ高さに設計されています。これは「死してなお、自分の城と城下町を見守り続ける」という清正の強い意志によるものと伝えられています。 また、浄池廟の正面は、熊本城の方向を向いていると同時に、はるか遠くの大坂城(豊臣秀頼のいる方角)をも向いているとされています。徳川の時代が本格化する中で世を去った清正の、豊臣家に対する最期の忠義が、この墓所の地政学的な配置に色濃く反映されているのです。

息を呑む急勾配「胸突雁木」と参道の構造Photo: Hyppolyte de Saint-Rambert / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

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息を呑む急勾配「胸突雁木」と参道の構造

本妙寺の境内に入り、清正が眠る浄池廟へと向かう参道には、「胸突雁木(むなつきがんぎ)」と呼ばれる非常に急勾配な石段が待ち構えています。 全176段からなるこの石段は、下から見上げるとまるで壁のようにそびえ立ち、登る者の息を切らせます。石段の両脇には、加藤家の後に熊本藩主となった細川家や、家臣団、有力な商人たちによって寄進された無数の石灯籠が立ち並んでおり、清正が時代を超えていかに領民や後継領主から神格化され、深く敬愛されていたかを示しています。 毎年7月23日の清正の命日前夜に行われる「頓写会(とんしゃえ)」という火祭りでは、この石段と参道が数万人の参拝者で埋め尽くされ、現在でも熊本を代表する宗教行事として脈々と受け継がれています。

西南戦争の戦火を免れた宝物館と清正の遺品

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西南戦争の戦火を免れた宝物館と清正の遺品

明治10年(1877年)、熊本城周辺は西郷隆盛率いる薩摩軍と政府軍が激突する西南戦争の主要な激戦地となりました。本妙寺の周辺でも激しい戦闘が繰り広げられ、多くの建造物が被害を受けましたが、奇跡的に宝物などは戦火から守り抜かれました。 現在、境内にある本妙寺宝物館には、加藤清正が実際に使用したとされる長烏帽子形張懸兜(ながえぼしなりはりかけかぶと:清正のトレードマークである細長い兜)や、十字架が彫られた短刀、秀吉から拝領した書状など、戦国第一級の歴史資料が多数保管・展示されています。 清正は熱心な日蓮宗の信者(法華経の信者)であり、軍旗にも「南無妙法蓮華経」の題目を掲げて戦いました。本妙寺に残る数々の武具や遺品からは、荒々しい武将としての側面と、深い信仰心に支えられた人間・加藤清正の素顔を同時に読み取ることができます。

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