崇福寺(岐阜市)

そうふくじ

崇福寺(岐阜市)

Photo: 杉山宣嗣 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

崇福寺(岐阜市)|本能寺の変後、岐阜城から移された信長父子の遺品と落城を伝える血天井

岐阜県岐阜市にある崇福寺(そうふくじ)は、長良川のほとりに位置する臨済宗妙心寺派の寺院です。元々は鎌倉時代に創建された古い寺院ですが、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県)を平定した織田信長によって手厚い保護を受け、織田家の菩提寺として重要な役割を担うようになりました。 本能寺の変で信長と嫡男・信忠が倒れた後、信長の孫である織田秀信(三法師)によって、遺品がこの崇福寺へと運び込まれ、境内に立派な廟所(供養塔)が建立されました。 また、この寺院の大きな見どころの一つに、関ヶ原の戦いの前哨戦にまつわる「血天井」があります。信長の栄光の記憶と、織田家の没落を決定づけた凄惨な戦いの痕跡が同居する、美濃における歴史の重要拠点です。

基本情報

ゆかりの人物
織田信長、織田信忠、織田秀信、斎藤利政(道三)※斎藤家の保護も受けた
主な見どころ
織田信長・信忠父子廟所、血天井、非情成仏の碑
創建
1469年(文明元年)※現在地への移転・中興
名称
崇福寺(そうふくじ)
宗派
臨済宗妙心寺派
所在地
岐阜県岐阜市長良福光2403-1
本尊
延命地蔵菩薩、聖観音菩薩
読み
そうふくじ
孫・秀信が築いた織田信長と信忠の廟所Photo: 杉山宣嗣 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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孫・秀信が築いた織田信長と信忠の廟所

天正10年(1582年)、本能寺の変において織田信長が、そして二条新御所で嫡男の信忠が自刃しました。遺体が発見されなかったため、信長の側室(お鍋の方)らは、信長と信忠の遺品を岐阜城からこの崇福寺へと密かに持ち込み、供養を行ったと伝えられています。 その後、清洲会議を経て信長の後継者となり、後に岐阜城主となった孫の織田秀信(三法師)は、祖父と父の菩提を弔うため、境内の裏手に立派な「織田信長・信忠父子廟所」を建立しました。 現在も本堂の裏手にひっそりと佇む廟所には、二つの宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んで建っています。京都の大徳寺総見院が「秀吉による政治的な追悼の場」であったのに対し、ここ岐阜の崇福寺は、残された織田家一族による「純粋な祈りと鎮魂の場」としての性質を強く持っています。

岐阜城落城の悲劇を今に伝える「血天井」Photo: 杉山宣嗣 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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岐阜城落城の悲劇を今に伝える「血天井」

崇福寺の本堂には、生々しい歴史の痕跡である「血天井」が存在します。この天井板は、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦である「岐阜城の戦い」に由来するものです。 西軍(石田三成方)に与した織田秀信は、東軍(徳川家康方)の福島正則や池田輝政らの猛攻を受け、岐阜城に立て籠もりました。激戦の末に岐阜城は落城し、秀信は降伏。この時、城内で討ち死にした三十八名の武将たちの血で染まった岐阜城の床板が、彼らの霊を慰めるために崇福寺へ運ばれ、本堂の天井板として張られました。 現在でも天井板には、足跡や血だまりの黒ずんだ痕跡がはっきりと残されています。信長が天下布武の拠点を置いた岐阜城の終焉と、織田家の本流が歴史の表舞台から姿を消した凄惨な記憶が、この血天井に刻み込まれているのです。

徳川幕府も恐れた? 朱印状による寺領保護

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徳川幕府も恐れた? 朱印状による寺領保護

織田家が没落し、徳川幕府の時代になっても、崇福寺は特別な扱いを受け続けました。江戸時代を通じて、歴代の徳川将軍家から寺領を安堵する「朱印状」が発給され、保護され続けたのです。 通常、かつての敵対勢力や滅亡した大名の菩提寺は縮小されることが多い中、崇福寺が保護された理由は、織田信長という人物の霊的権威を徳川幕府も無視できなかったためと考えられています。信長の魂を丁重に祀り続けることは、美濃地方の安定統治において必要不可欠な宗教的政策でした。 境内に残る数々の古文書や宝物は、権力者が入れ替わる激動の時代にあっても、信長の菩提寺という特別なステータスが、寺院を存続させる強力な盾となったことを示しています。

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