宝円寺

ほうえんじ

宝円寺

Photo: 藤谷良秀(Yoshihide Fujitani) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

宝円寺|遺髪が納められた御影堂と、加賀百万石の巨大な一族墓所へと繋がる菩提寺

石川県金沢市にある宝円寺(ほうえんじ)は、加賀百万石の礎を築いた戦国武将・前田利家が創建した曹洞宗の寺院です。天正11年(1583年)、金沢城に入城した利家が、越前府中(福井県)時代から深く帰依していた大透圭徐(だいとうけいじょ)を招いて開山しました。 この寺院は、加賀藩前田家の菩提寺として極めて重要な位置を占めています。しかし、前田家歴代藩主の「遺骸」の大部分は、寺の境内ではなく、金沢市街を見下ろす野田山墓地という広大な山に葬られています。 宝円寺の境内には、利家自身の髪の毛が納められた御影堂(みえいどう)が建ち、一族の位牌を祀る精神的な中心として、野田山の巨大な墓所群と対をなす独自の弔いの構造を持っています。度重なる火災を乗り越え、加賀藩の栄華と利家の素顔を今に伝える歴史空間です。

基本情報

ゆかりの人物
前田利家、まつ(芳春院)、大透圭徐、俵屋宗達
主な見どころ
前田利家公御影堂、俵屋宗達の墓、前田家歴代の位牌
創建
1583年(天正11年)
名称
宝円寺(ほうえんじ)
宗派
曹洞宗
所在地
石川県金沢市宝町6-14
本尊
十一面観世音菩薩
読み
ほうえんじ
自画像と遺髪が納められた利家の御影堂Photo: No machine-readable author provided. Abrahami assumed (based on copyright claims). / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5

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自画像と遺髪が納められた利家の御影堂

慶長4年(1599年)、前田利家は大坂で病に倒れ、62歳で生涯を閉じました。その遺骸は金沢の野田山へと運ばれて埋葬されましたが、宝円寺には利家の精神を身近に祀るための「御影堂(みえいどう)」が建立されました。 この御影堂には、前田利家が生前に自らの姿を描かせたといわれる自画像(肖像画)と、利家自身の遺髪が納められています。加賀藩を絶対的な権力で統治した初代藩主の身体的痕跡(遺髪)を境内に安置することで、宝円寺は金沢城下における前田家の威信を象徴する聖地としての役割を担いました。 御影堂の内部には歴代藩主や正室の位牌もずらりと安置されており、藩主一族が金沢に滞在している間、彼らの魂を供養するための最前線の施設として厚く保護されました。

境内には遺骸を置かない、前田家独自の「野田山墓地」との関係Photo: 運動会プロテインパワー / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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境内には遺骸を置かない、前田家独自の「野田山墓地」との関係

宝円寺の歴史を語る上で欠かせないのが、寺の境内と実際の墓所が物理的に切り離されているという特異な構造です。通常、大名の菩提寺には境内に巨大な墓所(五輪塔など)が築かれますが、前田家は金沢の南東にある野田山という山全体を巨大な一族の墓地としました。 利家の正室である「まつ(芳春院)」が、利家の墓を野田山に造営することを望んだためと言われています。宝円寺は、この野田山墓地を管理し、法要を取り仕切る中核施設として機能しました。 つまり、遺骸を自然の山(野田山)に還し、魂の供養と位牌の管理を寺院(宝円寺)で行うという、神道的な自然信仰と仏教のシステムを組み合わせたような加賀藩独自の弔いのスタイルが、この寺院の存在によって確立されたのです。

天才絵師・俵屋宗達の墓と加賀文化のパトロン

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天才絵師・俵屋宗達の墓と加賀文化のパトロン

宝円寺の境内には、江戸時代初期に活躍した日本美術史上の天才絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)の墓とされる石塔が存在します。「風神雷神図屏風」で知られる宗達ですが、その晩年の記録は謎に包まれていました。 しかし、近年の研究や寺伝により、加賀藩第三代藩主・前田利常が宗達を金沢に招き、厚く庇護していたことがわかってきました。加賀藩は武力ではなく「文化」によって徳川幕府への恭順と藩の権威付けを行う文化政策(百工比照など)を推し進めており、宗達もその国家プロジェクトの一環として金沢に滞在し、この地で没して宝円寺に葬られたと考えられています。 戦国武将の荒々しい菩提寺という顔だけでなく、百万石の豊かな財力が引き寄せた桃山・江戸期のトップアーティストが眠る場所として、加賀の高度な文化水準を物語る歴史的痕跡です。

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