恵林寺

えりんじ

恵林寺

Photo: さかおり ( talk / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

恵林寺|夢窓疎石の庭園と、「心頭滅却」の悲劇を越えた武田信玄の菩提寺

山梨県甲州市に所在する恵林寺(えりんじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院であり、戦国大名・武田信玄の菩提寺として広く知られています。元徳2年(1330年)に二階堂貞藤が夢窓疎石(むそうそせき)を招いて開山したという古い歴史を持ち、境内には国指定名勝である見事な庭園が残されています。 恵林寺の歴史は、甲斐武田氏の栄華と没落に直結しています。信玄の死後、勝頼の代で武田氏が滅亡すると、恵林寺は織田信長による過酷な焼き討ちに遭い、多くの僧侶が命を落とす凄惨な事件の舞台となりました。 現在は徳川家康によって再建された伽藍が並び、「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉が残る三門や、信玄が眠る墓所など、数多くの歴史的痕跡を静かに留めています。

基本情報

ゆかりの人物
武田信玄、快川紹喜、夢窓疎石、徳川家康
主な見どころ
夢窓疎石作庭の庭園(国指定名勝)、三門、武田信玄公墓所、うぐいす張りの廊下
創建
1330年(元徳2年)
名称
恵林寺(えりんじ)
宗派
臨済宗妙心寺派
所在地
山梨県甲州市塩山小屋敷2280
本尊
釈迦如来
読み
えりんじ
夢窓疎石が作庭した国指定名勝の池泉回遊式庭園Photo: funk bass / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

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夢窓疎石が作庭した国指定名勝の池泉回遊式庭園

恵林寺の本堂裏手に広がる庭園は、鎌倉時代末期から室町時代初期にかけて活躍した作庭の名手・夢窓疎石によって設計されました。京都の天龍寺や苔寺(西芳寺)の庭園も手がけた夢窓疎石の初期の代表作として、国の名勝に指定されています。 この庭園は、背後の山を借景とし、上段に枯山水、下段に池泉回遊式の庭を配置する複雑な立体構造を持っています。特に、ごつごつとした自然石を巧みに配置した石組みや、四季折々に表情を変える植栽の美しさは、禅の精神世界を視覚的に表現したものとされています。 武田信玄もこの庭をこよなく愛したと伝えられており、激しい戦いの合間にこの静寂な空間で自らの心を整えていた当時の情景が思い起こされます。

織田信長による焼き討ちと快川紹喜の「心頭滅却」

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織田信長による焼き討ちと快川紹喜の「心頭滅却」

天正10年(1582年)、武田氏を滅ぼした織田信長は、武田方に与した六角義弼らの引き渡しを恵林寺に要求しました。しかし、当時の住職であった快川紹喜(かいせんじょうき)は「仏の門に逃げ込んだ者を差し出すことはできない」としてこれを拒否します。 激怒した信長は恵林寺の焼き討ちを命じました。快川紹喜をはじめとする百数十名の僧侶は三門(山門)の楼上に押し込められ、周囲から火を放たれました。猛火に包まれる中、快川紹喜が言い放ったとされるのが「安禅必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」という有名な言葉です。 物理的な炎の熱さすら、禅の精神的境地によって超越するというこの壮絶な最期は、権力に屈しない仏教者の矜持として後世に語り継がれ、現在の三門の柱にもその言葉が掲げられています。

三年秘匿された信玄の死と、「うぐいす張り」の廊下Photo: さかおり ( talk / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

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三年秘匿された信玄の死と、「うぐいす張り」の廊下

恵林寺は武田信玄の正式な菩提寺であり、境内奥には信玄の墓所が設けられています。元亀4年(1573年)に信玄が信濃国(長野県)の陣中で病死した際、その遺言により「自身の死を三年間秘密にする」という措置がとられました。 三年後の天正4年(1576年)、ようやく恵林寺において信玄の盛大な葬儀が快川紹喜を導師として執り行われ、この地に遺骸が埋葬されました。現在も信玄の命日である4月12日には、供養の法要が営まれています。 また、本堂から庫裏へと続く廊下は、歩くたびに「キュッ、キュッ」と鳥の鳴き声のような音が鳴る「うぐいす張り」となっています。これは外部からの侵入者を知らせるための建築技術であり、戦国大名の菩提寺ならではの厳重な防犯対策の痕跡を体験することができます。

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