名古屋城

なごやじょう

名古屋城

Photo: Douglas P Perkins (Douglaspperkins) / Wikimedia Commons / Public domain

名古屋城|20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿

名古屋城を、20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿という切り口から読み直します。一般的な城の概要を並べるのではなく、この城でしか成立しない出来事と、現在の姿とのずれを入口にします。

基本情報

名称
名古屋城
読み
なごやじょう
別名
なし
所在地
愛知県名古屋市中区
築城時期
1610年
築城者
徳川家康
現在の城郭
国特別史跡。復元本丸御殿と現存櫓・石垣・堀などが残る
文化財・指定
国特別史跡

この記事では、名古屋城の見どころを「20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿」から三つの場面に分けて追います。各Sectionでは、固有の事実がなぜ意外で、城の見方をどう変えるのかを確認します。

01

石垣は、西国など20大名の分担工事だった

石垣は、西国など20大名の分担工事だったを、20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿の中の具体的な場面として見ます。

名古屋城の築城は、徳川家康の命による大規模な公儀普請でした。石垣工事には加藤清正や福島正則ら、西国・北国の大名20家が動員されています。 石垣を見ると、石にさまざまな刻印が残っています。名古屋城公式サイトでは、各大名が自分の運んだ石を他家の石と区別するための目印と考えられると説明しています。 ただし、「大名を貧乏にして反乱を防ぐため」とまで断定する一次的な根拠は別問題です。確実に言えるのは、 巨大な城の石垣を20家に分担させた というスケールです。

石垣は、西国など20大名の分担工事だった

石垣は、西国など20大名の分担工事だった

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

02

1945年に焼けた御殿を、資料から丸ごと戻した

1945年に焼けた御殿を、資料から丸ごと戻したを、20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿の中の具体的な場面として見ます。

名古屋城の天守と本丸御殿は1945年の空襲で焼失しました。しかし本丸御殿には、復元を可能にする異例の量の資料が残りました。 309枚の昭和実測図、約700枚の古写真、戦火を免れた1,049面の障壁画。名古屋市はこれらをもとに2009年から復元を進め、2018年に全体を完成公開しました。 原則として旧来の材料・工法を使い、復元時代も寛永期に設定。 「昔っぽい御殿」を新築したのではなく、残された記録から建物を逆算した プロジェクトです。

1945年に焼けた御殿を、資料から丸ごと戻した

1945年に焼けた御殿を、資料から丸ごと戻した

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

03

金シャチの下ではなく、平屋の御殿が見せ場になっている

金シャチの下ではなく、平屋の御殿が見せ場になっているを、20大名で石垣を築き、いま主役は天守より御殿の中の具体的な場面として見ます。

現在の本丸御殿は、玄関、表書院、対面所、上洛殿などを歩いて見学できます。部屋の格式によって天井、欄間、飾金具、障壁画の意匠まで変わります。 一方、1959年に鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守閣は、現在入場できません。 名古屋城と聞けば、どうしても金シャチを見上げたくなります。でも現在、内部まで歩いて徳川期の空間を体感できる主役は、その足元に広がる平屋の本丸御殿です。

金シャチの下ではなく、平屋の御殿が見せ場になっている

金シャチの下ではなく、平屋の御殿が見せ場になっている

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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