川越城

かわごえじょう(かわごえじょう)

川越城

Photo: Douglas P Perkins (Douglaspperkins) / Wikimedia Commons / Public domain

川越城|御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用

川越城を、御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用という切り口から読み直します。一般的な城の概要を並べるのではなく、この城でしか成立しない出来事と、現在の姿とのずれを入口にします。

基本情報

名称
川越城(河越城)
読み
かわごえじょう(かわごえじょう)
別名
河越城
所在地
埼玉県川越市郭町2丁目13-1
築城時期
長禄元年(1457年) 太田道真・道灌父子による
築城者
太田道真・道灌父子
現在の城郭
現在、お城の建物はほとんど残っていませんが、一つだけとてつもない価値を持つ建物が現存しています。
文化財・指定
記事本文に文化財・指定情報の明記なし

この記事では、川越城の見どころを「御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用」から三つの場面に分けて追います。各Sectionでは、固有の事実がなぜ意外で、城の見方をどう変えるのかを確認します。

01

8万vs8千。日本三大夜戦「川越夜戦」の舞台

8万vs8千。日本三大夜戦「川越夜戦」の舞台を、御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用の中の具体的な場面として見ます。

江戸時代の平和なイメージが強い川越城ですが、戦国時代には「日本三大夜戦」の一つに数えられる、凄惨かつ奇跡的な大逆転劇の舞台となりました。 天文15年(1546年)、関東の覇権を争っていた北条氏康(ほうじょううじやす)は絶体絶命の危機にありました。川越城(当時は河越城)を守る北条軍3千に対し、上杉氏を中心とする関東の連合軍「約8万」が城を完全に包囲したのです。 援軍に駆けつけた氏康の兵力を合わせても約8千。10倍の敵に対して、氏康は「夜襲」というギャンブルに出ました。兵士たちに鎧を脱がせて身軽にし、暗闇の中で「味方同士の合言葉」だけを決めて敵陣に突っ込んだのです。油断しきっていた8万の連合軍は大パニックに陥り、同士討ちを始めて壊滅しました。この「川越夜戦」の大勝利によって、北条氏は関東の支配を決定的なものにしたのです。

8万vs8千。日本三大夜戦「川越夜戦」の舞台

8万vs8千。日本三大夜戦「川越夜戦」の舞台

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

02

東日本で唯一残る「本丸御殿」

東日本で唯一残る「本丸御殿」を、御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用の中の具体的な場面として見ます。

戦国時代を生き抜いた川越城は、江戸時代に入ると大規模に改修され、嘉永元年(1848年)に豪華な「本丸御殿(ほんまるごてん)」が建てられました。 本丸御殿とは、お殿様の住まいであり、政治を行うオフィスのことです。実は、日本全国の城で本丸御殿が現存しているのは、高知城とこの川越城の「たった2つ」しかありません(二の丸御殿なら二条城や川越城などがあります)。東日本では唯一の、極めて貴重な大名のお屋敷なのです。

東日本で唯一残る「本丸御殿」

東日本で唯一残る「本丸御殿」

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

03

明治時代、御殿は「バレーボールコート」だった

明治時代、御殿は「バレーボールコート」だったを、御殿の床に「体育館」の傷跡? 奇跡の夜戦を制した川越城の、国宝級建築の意外すぎる再利用の中の具体的な場面として見ます。

しかし、川越城本丸御殿の廊下や大広間を歩いていると、板の間に白いペンキの線が引かれていたり、ピンボール(ビリヤードのような遊び)の玉がぶつかったような丸い凹みが無数にあることに気づきます。 なぜ大名の御殿にこんな傷があるのでしょうか。実は明治維新の後、お城は不要となり、この本丸御殿は「入間県庁」や「中学校の校舎・体育館」として再利用されていたのです。 当時の学生たちは、江戸時代の豪華な大広間でバレーボールや屋内スポーツをし、廊下でピンボール遊びをしていました。その時の白線や傷跡が、そのまま保存されているのです。本来なら歴史的建造物への「落書き・破損」ですが、今となっては「近代化によってお城がどう扱われたか」を示す、非常に人間臭くて愛おしい歴史の証拠となっています。

明治時代、御殿は「バレーボールコート」だった

明治時代、御殿は「バレーボールコート」だった

Photo: Wikimedia Commons

はの門へ続く登城路と姫路城の天守

Photo: そらみみ / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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