青い海の向こうに、王国と魔物と、地図には載らない物語がある。
日本とは別の王国があり、魔物を止める石が今も路地に立つ。かつては汽車が走り、車は道路の右側を走っていた。沖縄を十の物語から歩いてみよう。
1429年、尚巴志が三山を統一し、琉球王国が誕生した。首里城を中心に、中国や東南アジアと交易を重ねた海の王国だ。ところが1609年、薩摩藩が侵攻。国王は残ったものの、王府の政治と貿易は薩摩の強い影響を受けることになった。
琉球はその後も中国との冊封関係を続け、王国の姿を保った。支配されているのに、外国とは王国として向き合う。こうした仕組みは幕末、思いがけない外交劇につながる。1872年に琉球藩が置かれ、1879年には明治政府が沖縄県を設置。尚泰王は首里城を去った。約450年続いた王国は、こうして幕を閉じた。
1853年5月、ペリー艦隊は浦賀より先に那覇へ姿を現した。ペリーは首里城を訪れ、琉球王府に修好を要求する。ところが琉球には厄介な事情があった。王国の名を掲げていても、1609年以来、薩摩藩の支配下にあったのだ。勝手に外国と条約を結べたのだろうか。
薩摩は中国との外交・貿易を維持するため、琉球が王国として振る舞う形を残していた。外交交渉では薩摩側の関与が表に出ないようにする場面もあった。ペリーは江戸幕府との日米和親条約締結後、再び琉球へ向かい、1854年7月11日に琉米修好条約を結ぶ。アメリカ船の補給や遭難船の救助などを定めたこの条約には、琉球側の役人が調印した。
日本の幕府とも、薩摩支配下の琉球王国とも、別々に条約を結んだペリー。沖縄の外交関係は、現在の日本地図だけを見ても分からない。
沖縄本島南部から船で渡る久高島は、琉球の創世神話に登場する聖地だ。海と集落を歩くと、観光の看板より先に島の暮らしと祈りの場に出会う。
久高島では石や砂、植物など自然物を持ち帰らないことが求められている。島のあちこちには祈りの場所があり、フボー御嶽のように立ち入りが制限された場所もある。美しい浜の石を一つ拾う。その何気ない行為が、ここでは島の大切なものを持ち去ることになる。
沖縄の路地を歩くと、家の塀やT字路の突き当たりに「石敢當」と刻んだ石を見かける。看板ではない。魔除けだ。
沖縄の伝承では、マジムンと呼ばれる魔物はまっすぐ進むとされ、道の突き当たりに石敢當を置いて災いを防ぐ。石敢當の習俗は中国にもあり、琉球の交易が持ち込んだ文化の一つと考えられる。道が終わる場所に石がある。見慣れた町角が、突然、魔物の通り道に変わる。

沖縄の集落の外れで、家ほどもある立派な墓に出会うことがある。曲線を描く「亀甲墓」や、屋根を備えた「破風墓」だ。
沖縄では祖先を大切にする習俗が深く根づき、旧暦の清明節の頃には親族が墓に集まる「シーミー」が行われる。墓前で供物を並べ、親族で食事を共にする光景も見られる。墓は亡くなった人を納める場所であると同時に、親族が再び集まる場所でもある。

飲み会の名前かと思ったら、お金の仕組みだった。沖縄の「模合(もあい)」では、仲間が定期的に集まり、一定額ずつ出し合ったお金を順番に受け取る。
結婚、商売、急な出費。まとまったお金が必要な場面を仲間同士で助ける仕組みとして続いてきた。今では資金のやり取りより、友人同士の定例会として続ける模合もある。一方、金銭を扱う以上、運営がうまくいかなければトラブルにもなる。沖縄の日常には、銀行の外にも長く続いてきた人のつながりがある。

沖縄で「エンダー」と呼ばれるハンバーガー店、A&W。名物のルートビアは、ハーブやスパイスが香る独特の炭酸飲料だ。初めて飲んだ人からは「湿布みたい」という感想も飛び出す。
沖縄のA&Wでは、店舗で提供されるルートビアのおかわり無料サービスが名物になっている。アメリカ統治下に広まった食文化が、今では沖縄の暮らしにすっかり溶け込んだ。初めての一杯で好きになるか、二度と頼まないと決めるか。旅行者の好みが分かれる一杯だ。
沖縄本島に鉄道はなかった、と思っていないだろうか。戦前の那覇には駅があり、与那原・嘉手納・糸満へ向かって軽便鉄道が走っていた。人々の足となり、砂糖や物資も運んだ。
沖縄戦で線路や駅は大きな被害を受け、県営鉄道は戦後に復活しなかった。現在のゆいレールとは別に、沖縄には一度失われた鉄道の歴史がある。与那原町には当時の駅舎を復元した展示施設があり、かつての線路の記憶をたどれる。
沖縄では道路や建物の工事中に、沖縄戦で使われた砲弾や爆弾が見つかることがある。発見されれば、工事が止まり、周辺住民の避難や自衛隊による処理が必要になる場合もある。
1945年の地上戦で大量の弾薬が使われた沖縄。戦闘が終わって80年以上たっても、土の下には不発弾が残っている。新しい街をつくるために地面を掘ると、戦争の痕跡が現れる。過去の出来事のはずの戦争が、いまも暮らしを止めることがある。
1978年7月30日、沖縄の交通ルールが一夜で切り替わった。アメリカ統治下から続いた車の右側通行が、日本本土と同じ左側通行になったのだ。通称「ナナサンマル」。
車線だけではない。道路標識、バス停、バスの乗降口、交差点の誘導まで大きな変更が必要だった。切り替え直前には全県的に車の通行を止め、夜を徹して設備を直した。朝、いつもの道へ出ると、車は昨日と反対側を走る。1972年の日本復帰から6年後、暮らしの景色が一晩で変わった。
地域によっては、家族の悩みや節目に民間の霊的相談者「ユタ」を訪ねる人がいる。医療や行政とは異なる伝統的な相談文化だ。
木の精霊キジムナーはガジュマルに住むと語られる。魚の目玉を好み、とりわけ左目が好きという伝承もある。
旧盆の時期は先祖の霊を迎える大切な日々。海に入ると危ないという言い伝えは、先祖や海への畏れと結びついている。
金時豆などを甘く煮て、かき氷を山盛りにした冷たい甘味。温かい小豆汁を想像すると、まったく違う姿が出てくる。
飲酒後にステーキ店へ立ち寄る「締めステーキ」の習慣が知られる。ただし、沖縄の誰もがそうするわけではない。
フライドチキンを白いご飯と一緒に食べたり、行事の食卓に並べたりする家庭もある。持ち帰り食文化が根づいた一例だ。
披露宴の結びに、両手を頭上で回しながら踊ることがある。カチャーシーは祝いの場を皆で分かち合う踊りだ。
ハブ対策として導入されたマングースが、ヤンバルクイナなど在来の生き物にも影響を及ぼした。生態系を守るため防除が進められた。
黄色く熟すと実が割れ、赤い種の周りの部分は甘くなる。ふだん苦味を味わう緑色のゴーヤーとは別の顔だ。
屋根の上のシーサーが広く見られるようになったのは比較的新しい時代。古くは城門や集落の入口などにも魔除けとして置かれた。
台風の強風や潮風に備え、鉄筋コンクリート造が広く採用された。屋上の給水タンクも沖縄の住宅景観の一部だ。
2016年1月、名護市と久米島でみぞれが観測された。気象庁の統計上、みぞれは雪に含まれるため「初めての雪」と報じられた。
本土で花粉症の原因になるスギの人工林が少ないため、スギ花粉は比較的少ない。ただし、花粉症の原因植物がないわけではない。
戦後の米軍統治下では、米軍発行のB円が流通した。その後は米ドルへ切り替わり、1972年の日本復帰に合わせて円になった。
宮古島の一部地域では、泥をまとった来訪神「パーントゥ」が人々に泥を塗る行事がある。厄払いと祝福の意味を持つ。
1957年に沖縄で創業したビール会社。沖縄の気候や食卓に親しまれ、地域を代表するブランドに育った。
米軍基地の中で販売されていたアイスクリーム文化がルーツ。沖縄ならではのフレーバーでも知られる。
紅いもを使い、細長い舟形に仕上げた沖縄銘菓。土産物として定着し、県内各地で見かける。
1980年代、金武町で生まれたとされる料理。タコスの具材をトルティーヤではなくご飯に載せる。
そば粉を使わず主に小麦粉で作る麺料理。豚だしやかつおだしのスープ、三枚肉などの具材が特徴。
琉球王国時代から伝わる焼き菓子。小麦粉・砂糖・ラードなどを使い、軽い食感に焼き上げる。
丸い生地を揚げて作る沖縄の伝統菓子。「サーター」は砂糖、「アンダギー」は油で揚げたものを表す。
米こうじと水から造る沖縄の蒸留酒。黒こうじ菌を使うのが特徴で、古酒を育てる文化もある。
沖縄で生まれたステーキチェーン。手頃な価格でステーキを楽しむ沖縄の食文化から広がった。
沖縄の暑い気候に合わせた半袖シャツ。ビジネスや式典でも着られ、沖縄らしい柄が用いられる。
落花生(ジーマーミ)から作る、もっちりした豆腐状の郷土料理。甘辛いたれをかけて食べることも多い。
沖縄の菓子メーカーが展開する乾燥梅干しのブランド。甘酸っぱい味で県外にもファンが広がった。