米沢城

よねざわじょう

米沢城

Photo: Syced / Wikimedia Commons / CC0

米沢城

山形県米沢市に所在する米沢城は、江戸時代を通じて上杉氏の居城として知られる。しかし、戦国時代には伊達氏の本拠地であり、伊達政宗が誕生した場所でもある。領地の大幅な削減に伴う深刻な財政難と人口過密状態、そして藩祖・上杉謙信に対する強烈な信仰が城郭の構造に与えた影響について紐解く。

基本情報

名称
米沢城
別名
舞鶴城、松岬城
所在地
山形県米沢市丸の内
築城
鎌倉時代中期(長井氏による)、その後伊達氏、上杉氏による改修
主な築城者
長井時広、伊達氏、上杉景勝
現在の城跡・建造物の状態
松が岬公園として整備。本丸跡に上杉神社が鎮座し、堀や土塁が現存。
伊達氏の本拠地としての歴史と政宗の生誕地

01

伊達氏の本拠地としての歴史と政宗の生誕地

米沢城といえば上杉氏の居城という認識が定着しているが、歴史を遡れば約二百年にわたり奥州の覇者・伊達氏の本拠地として機能していた。 永禄十年(一五六七年)、伊達家第十七代当主となる伊達政宗はこの米沢城内で誕生している。政宗は家督を継いだ後、この城を拠点として南奥州の平定を進め、会津の蘆名氏を滅ぼすなどの軍事的成功を収めた。 しかし、豊臣秀吉の奥州仕置によって政宗は本拠地を岩出山城へ移すことを余儀なくされ、伊達氏は先祖代々の地である米沢を手放すこととなる。 その後、蒲生氏郷の家臣による支配を経て、慶長三年(一五九八年)に上杉景勝が会津百二十万石で入封したことに伴い、重臣の直江兼続が米沢城主として入城した。

大幅な減封による城下町の人口過密と上杉鷹山の藩政改革

02

大幅な減封による城下町の人口過密と上杉鷹山の藩政改革

関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉景勝は、戦後に徳川家康から会津百二十万石から米沢三十万石(後に十五万石)へと大幅な減封処分を受けた。 通常の減封であれば家臣を解雇して規模を縮小するが、上杉家は「義」を重んじ、ほぼすべての家臣を連れて米沢へ移住した。 その結果、本来であれば小規模な大名が治めるべき城下町に、旧百二十万石規模の膨大な武士とその家族が押し込まれることとなった。 家臣たちは城の周辺に極小の敷地を与えられ、半農半士の生活を強いられるという極度の困窮状態に陥った。 この絶望的な財政難と過密状態を打破したのが、後に藩主となった上杉鷹山である。彼の徹底した倹約令と殖産興業政策により、米沢藩は奇跡的な財政再建を果たすこととなる。

本丸内部に上杉謙信の遺骸を安置した「御堂」の存在

03

本丸内部に上杉謙信の遺骸を安置した「御堂」の存在

米沢城の構造における最大の特徴は、本丸の最深部に藩祖・上杉謙信の遺骸を安置した「御堂(みどう)」が設けられていたことである。 一般的な城郭において、政治・軍事の中心である本丸の内部に墓所や霊廟を設けることは極めて異例である。 謙信の遺骸はもともと越後国の春日山城に安置されていたが、上杉家が会津、そして米沢へと転封される度に、漆塗りの甕(かめ)に納められた状態で大切に運ばれてきた。 大幅な領地削減と貧困に苦しむ上杉家の家臣団にとって、本丸に鎮座する謙信の存在は、精神的な支柱であり結束の象徴であった。 明治時代の神仏分離令に伴い、この御堂は現在の「上杉神社」へと姿を変え、現在も米沢の精神的中心として信仰を集めている。

SAME CATALOG

同じ図鑑のほかの記事