駿府城

すんぷじょう

駿府城

Photo: by Monado / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.5

駿府城

静岡県静岡市に位置する駿府城は、徳川家康が将軍職を退いた後に大御所として政治の実権を握り続けた拠点である。幼少期を今川家の人質として過ごしたこの地は、家康の生涯において特別な意味を持っていた。江戸幕府の初期において、実質的な首都として機能した巨大城郭の歴史的背景と、近代化に伴う城跡の変容について詳述する。

基本情報

名称
駿府城
別名
府中城、静岡城
所在地
静岡県静岡市葵区
築城
1585年(天正13年)、のち1607年(慶長12年)に大改修
主な築城者
徳川家康
現在の城跡・建造物の状態
駿府城公園として整備。東御門・巽櫓などが復元され、天守台の発掘調査が進行中。
今川義元の庇護下で高度な教養を吸収した人質時代

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今川義元の庇護下で高度な教養を吸収した人質時代

徳川家康は幼少期である松平竹千代の時代から青年期に至るまでの約十二年間を、今川義元の人質として駿府の地で過ごした。人質という立場ではあったものの、実際の家康は今川家の軍師・太原雪斎から直接教えを受けるなど、当時の東海道で最も洗練されていた京都文化や高度な統治手法を学ぶための英才教育を施されていた。家康はここで鷹狩りの技術や武術の鍛錬にも励み、将来の家臣団となる三河武士たちとの結束を固める期間としても活用している。この駿府で培われた政治的・文化的素養や周辺の地理に対する深い理解が、後に家康が天下人となった際の幕府運営や法整備に多大な影響を与えたとされている。今川家からの独立を果たした後に再び駿府を自らの居城として手中に収めた事実は、彼にとって大きな政治的達成であった。

江戸城を凌駕する権威を示した七重の巨大天守の建造

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江戸城を凌駕する権威を示した七重の巨大天守の建造

江戸幕府を開いた後、家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府城に移り住んだ。慶長十五年(一六一〇年)に行われた天下普請による大改修では、全国の諸大名に命じて江戸城を凌駕する規模の巨大な城郭を造営している。特筆すべきは、大工頭・中井正清によって築かれた七重(外観五重、内部七階)の巨大な天守である。この天守は当時の日本において最大級の威容を誇り、名目上の首都である江戸に対して、駿府が実質的な政治の中枢であることを国内外に強烈に誇示する軍事的・政治的シンボルであった。しかし、この壮麗な天守は寛永十二年(一六三五年)の城下からの出火によって焼失する。その後の江戸時代は泰平の世が続き、軍事的な拠点としての重要性が低下したため、再び天守が再建されることはなかった。

明治維新後の陸軍歩兵第三十四連隊駐屯による城郭の破壊

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明治維新後の陸軍歩兵第三十四連隊駐屯による城郭の破壊

明治維新を迎えた後、駿府城は近代国家の建設に伴う大規模な改変の対象となった。日本の多くの城郭が辿った運命と同様に、駿府城も存城廃城の判断が下され、建物や石垣の多くが解体・売却された。城郭の景観にとって致命的であったのが、明治二十九年(一六九六年)に大日本帝国陸軍の歩兵第三十四連隊の駐屯地が本丸跡に設置されたことである。この際、広大な兵舎や練兵場を確保するために、本丸を囲んでいた内堀は完全に埋め立てられ、家康が築き上げた城郭の基本的な縄張り(設計)は物理的に大きく破壊されることとなった。現在、城跡は駿府城公園として市民に開放されており、近年の発掘調査によってかつての巨大な天守台の石垣や金箔瓦が次々と出土しているが、地上からは当時の面影の多くが失われている。

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