{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}佐倉城

さくらじょう

佐倉城

佐倉城|江戸の東を護る土塁の要塞と、幕閣を輩出した譜代大名の拠点

千葉県佐倉市に位置する佐倉城は、江戸城の東方の防衛線を担う最重要拠点として、徳川幕府の重鎮である譜代大名たちによって統治された平山城である。石垣を使用せず、関東ローム層の地形を活かした巨大な土塁と空堀による実戦的な築城術の全貌と、老中や大老を多数輩出した歴代城主の政治的背景、および近代における陸軍連隊の駐屯から歴史公園へと変貌を遂げた軌跡を検証する。

基本情報

名称
佐倉城
読み
さくらじょう
別名
確認できる代表的な別名なし
所在地
千葉県佐倉市城内町
築城時期
慶長15年(1610年) 土井利勝による
築城者
土井利勝
現在の城郭
国立歴史民俗博物館が隣接する広大な敷地が、かつての佐倉城(さくらじょう)の跡地(佐倉城址公園)です。
文化財・指定
記事本文に文化財・指定情報の明記なし
土井利勝による近世城郭化と「土の城」の極致Photo: KimonBerlin / Wikimedia Commons / CC BY-SA 2.0

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土井利勝による近世城郭化と「土の城」の極致

佐倉の地は、戦国時代には千葉氏の一族である鹿島氏が本拠を構えた場所であったが、江戸幕府が成立すると、江戸の東(房総半島方面)を抑える軍事・交通の要衝としてその戦略的価値が再評価された。 慶長十五年(1610年)、徳川秀忠の側近であり後に大老となる土井利勝が三万二千石(のちに十万石以上)で入封し、約七年の歳月をかけて近代的な城郭への大改修を行った。 佐倉城の建築的特徴は、巨大な城郭でありながら石垣を一切用いず、関東ローム層の粘土質な地盤を削り出した巨大な空堀(からぼり)と、掘り出した土を高く盛り上げた土塁(どるい)によって防衛ラインを構築している点にある。 本丸には天守の代わりに三層四階の「御三階櫓(ごさんかいやぐら)」が造営され、周囲には水堀と泥田状の湿地帯を配置することで、敵の直進を物理的に阻む関東特有の「土の要塞」の完成形が築き上げられた。

老中・大老を輩出した譜代大名の拠点と堀田氏の統治

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老中・大老を輩出した譜代大名の拠点と堀田氏の統治

佐倉城は、その地理的および軍事的な重要性から、親藩や譜代大名の中でも徳川将軍家に極めて近い、幕府の最高首脳陣が城主として配置される特異な城郭であった。 土井氏に始まり、石川氏、松平氏、大久保氏など城主が頻繁に交替したが、入封した大名の多くが老中や大老といった幕政の枢機に参画している。江戸時代中期以降は堀田氏が十一万石で入封し、以後幕末に至るまで佐倉藩の統治を安定させた。 特に幕末期の藩主・堀田正睦(ほった まさよし)は老中首座として日米修好通商条約の締結に奔走するなど、佐倉城を拠点とする大名が日本の中央政局に与えた影響は多大であった。 また、堀田正睦は蘭学を積極的に保護し、城下に順天堂(現在の順天堂大学のルーツ)を招致するなど、佐倉を「西の長崎、東の佐倉」と称されるほどの近代医学・蘭学の先進都市へと発展させる内政的功績を残した。

近代における連隊駐屯地化と国立歴史民俗博物館の設立Photo: Higa4 / Wikimedia Commons / CC0

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近代における連隊駐屯地化と国立歴史民俗博物館の設立

明治維新を迎えると、佐倉城は新政府の軍事施設として接収され、明治六年(1873年)の廃城令に伴い、御三階櫓をはじめとする城郭の全建造物が解体・売却された。 その後、広大な城跡には大日本帝国陸軍の歩兵第二連隊(後に歩兵第五十七連隊、通称・佐倉連隊)の兵舎が建設され、城の景観は近代的な軍事駐屯地へと大きく変貌した。 この際、兵士の訓練場を確保するために一部の土塁が削り取られ、堀が埋め立てられるなどの地形改変が行われている。 太平洋戦争の終結後、長らく荒廃していた城跡は昭和後期に「佐倉城址公園」として史跡整備が進められた。 さらに昭和五十八年(1983年)、かつての椎木曲輪(しいのきくるわ)跡地に、日本の歴史と文化を総合的に研究・展示する「国立歴史民俗博物館」が開館した。 中世の砦から江戸の防衛拠点、近代の軍事施設へと時代ごとの国家の要請によって姿を変え続けた空間は、現在、日本列島の歴史を俯瞰する国内最大級の学術拠点として機能している。

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