坂本城

さかもとじょう

坂本城

Photo: 投稿者が撮影 / Wikimedia Commons / Public domain

琵琶湖の水運を掌握した明智光秀の壮麗な水城と文化財引き渡しの最期

滋賀県大津市に所在した坂本城は、比叡山焼き討ちの後に織田信長の命を受けた明智光秀によって築城された。琵琶湖の湖水を城内に引き込んだ高度な水城であり、ルイス・フロイスが安土城に次ぐ名城と評価したことでも知られる。光秀の文化的素養を反映した城郭の構造と、山崎の戦い直後に迎えた落城の経緯について記載する。

基本情報

名称
坂本城
別名
特になし
所在地
滋賀県大津市下阪本
築城
1571年(元亀2年)
主な築城者
明智光秀
現在の城跡・建造物の状態
廃城となり地上遺構はほぼ消失。坂本城址公園に石碑や明智光秀像があり、渇水時には湖底に石垣の一部が露出する。
宣教師ルイス・フロイスが感嘆した豪壮華麗な水城の全貌

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宣教師ルイス・フロイスが感嘆した豪壮華麗な水城の全貌

元亀二年(一五七一年)の比叡山焼き討ちの後、織田信長から近江国滋賀郡を与えられた明智光秀は、水陸交通の要衝である坂本の地に新たな城を築いた。坂本城の最大の特徴は、琵琶湖の湖水を取り入れた水堀を持ち、城内から直接船で出撃できる構造を備えた水城(海城)であったことである。大小二つの天守(またはそれに類する高層建築)がそびえ立ち、宣教師のルイス・フロイスはその著書『日本史』の中で「安土城に次いで日本で最も豪壮で華麗な城である」と手放しで絶賛している。京都への物資輸送を完全に掌握し、延暦寺の動向を監視するための軍事的・経済的な最重要拠点として、光秀の類まれな築城手腕が発揮された建造物であった。

山崎の戦いでの敗北と明智秀満による一族の最期

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山崎の戦いでの敗北と明智秀満による一族の最期

天正十年(一五八二年)の本能寺の変によって信長を討った光秀であったが、直後の山崎の戦いにおいて羽柴秀吉の軍勢に敗れ、敗走中に落命する。 光秀の娘婿であり、重臣であった明智秀満(左馬助)は、安土城の守備に就いていたが、敗戦の報に接して急遽坂本城へと後退した。 しかし、秀吉軍の先鋒である堀秀政の軍勢に城を完全に包囲され、防戦の限界を悟る。 秀満は残された明智一族の女性や子供たちを自らの手で刺し殺した後、城に火を放って自刃した。 宣教師が絶賛した豪壮華麗な水城は、築城からわずか十一年という短期間で、明智一族の滅亡とともに業火に包まれ、琵琶湖の湖畔からその姿を消すこととなったのである。

落城直前に敵軍へ託された天下の名物と文化財保護の精神

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落城直前に敵軍へ託された天下の名物と文化財保護の精神

自刃して城に火を放つ直前、明智秀満は後世に語り継がれる特筆すべき行動をとっている。 彼は城内に保管されていた光秀秘蔵の茶器、刀剣、貴重な書物などの「天下の名物」を丁寧に荷造りし、目録を添えて包囲軍の堀秀政の陣へと引き渡したのである。 秀満は使者に対し「これらの宝物は天下の至宝であり、明智一族の私物とともに灰燼に帰すことは国の損失である」という趣旨の伝言を託したとされている。 自らの命と一族の滅亡が迫る極限状態にあっても、個人の愛憎を超えて歴史的文化財の散逸を防ごうとした秀満の理性的な行動は、明智家が持っていた高い文化的素養と武士としての誇りを象徴する出来事として記録されている。

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