根城

ねじょう

根城

Photo: 小池 隆 / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

根城

青森県八戸市に位置する根城(ねじょう)は、建武元年(一三三四年)に南部師行によって築城され、南北朝時代において南朝方の奥州における最重要拠点として機能した中世の平山城である。発掘調査の成果をもとに復元された掘立柱建物や鍛冶工房が、当時の武士の生活様式を現代に伝え、中世城郭の全貌を理解する上で極めて価値の高い学術的空間となっている。

基本情報

名称
根城
別名
特になし
所在地
青森県八戸市根城
築城
1334年(建武元年)
主な築城者
南部師行
現在の城跡・建造物の状態
史跡 根城の広場として整備。本丸跡に主殿、鍛冶工房、納屋などの掘立柱建物が発掘調査に基づき忠実に復元されている(国指定史跡)。
建武の新政下で築かれた南朝方の奥州防衛拠点

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建武の新政下で築かれた南朝方の奥州防衛拠点

鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇による建武の新政が始まると、北畠顕家は陸奥守として奥州へ下向した。この顕家に供奉して甲斐国から奥州へと入ったのが南部師行(なんぶ もろゆき)である。 建武元年(一三三四年)、師行は現在の八戸の地に新たな城館を築き、南朝方の拠点として「根本となる城」という意味を込めて「根城」と名付けた。 その後、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻して南北朝の動乱が勃発すると、根城は奥州における南朝方の軍事・政治の最前線基地となる。 師行自身は和泉国石津の戦いで北朝方の高師直軍と激突して壮絶な戦死を遂げるが、彼の跡を継いだ八戸南部氏(根城南部氏)は、その後約三百年間にわたりこの根城を居城として領国経営を行い、北朝方の勢力と激しい攻防を繰り広げた。

発掘調査に基づき復元された「中世城郭」の実態

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発掘調査に基づき復元された「中世城郭」の実態

日本の多くの名城が巨大な石垣や天守を持つ「近世城郭」であるのに対し、根城は土塁と空堀を主体とした「中世城郭」の典型例である。 昭和後期から実施された大規模な発掘調査により、本丸跡から柱の穴や生活の痕跡が多数発見された。この学術データに基づき、平成六年(一九九四年)に本丸の主殿をはじめとする様々な建物が復元されたが、これらは基礎石を使わず柱を直接土に埋める「掘立柱(ほったてばしら)建物」という中世特有の建築様式を採用している。 復元されたのは武士の政務空間である主殿だけでなく、武器や農具を修理・生産するための「鍛冶工房」、馬を繋いでおく「厩(うまや)」、食糧を備蓄する「納屋」など多岐にわたる。華美な装飾を排し、実用性と生産機能を重視した戦国期以前の武士の館のリアルな構造を、これほどまでに視覚的に体感できる史跡は全国でも極めて稀である。

豊臣秀吉の奥州仕置と遠野への国替えによる廃城

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豊臣秀吉の奥州仕置と遠野への国替えによる廃城

約三百年にわたり八戸南部氏の本拠地として繁栄した根城であったが、天正十八年(一五九〇年)の豊臣秀吉による小田原征伐を機に、その運命は大きく転換する。 秀吉の奥州仕置により、同族である三戸南部氏の南部信直が南部氏一族の宗家として正式に公認され、八戸南部氏は信直の家臣として編成されることとなった。 秀吉が発布した城割令(不要な城の破却命令)により根城の堀の一部が埋め戻されるなどの縮小を余儀なくされた。さらに寛永四年(一六二七年)、八戸南部氏第二十二代当主の直義の時代に、藩命によって領地を陸中遠野(現在の岩手県遠野市)へと移封されることが決定する。 これにより八戸南部氏は先祖代々の地を離れ、根城は三百年に及ぶ歴史に幕を下ろして完全に廃城となった。 城の建物の多くは解体されて遠野へと運ばれたと伝わっている。

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