中津城

なかつじょう

中津城

Photo: Mukai / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

中津城 | 黒田官兵衛が設計した海水要塞と、城下に残る血塗られた「赤壁」

大分県中津市に位置する中津城は、豊臣秀吉の軍師として天下統一に貢献した黒田官兵衛(孝高)が、豊前国を与えられて最初に築いた本拠地である。周防灘の海水を直接堀に引き込んだ巧妙な水城としての建築構造と、旧領主である宇都宮氏を完全に排除するために謀られた凄惨な暗殺劇、およびその痕跡として現代に残る寺院の赤壁について記録する。

基本情報

名称
中津城
別名
扇城(せんじょう)
所在地
大分県中津市二ノ丁
築城
1588年(天正16年)
主な築城者
黒田孝高(官兵衛)
現在の城跡・建造物の状態
模擬天守(昭和39年建造)があり、黒田時代および細川時代の石垣が現存。
潮の満ち引きを利用した周防灘に面する強固な海水要塞

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潮の満ち引きを利用した周防灘に面する強固な海水要塞

九州平定の功績によって豊前国六郡を与えられた黒田官兵衛は、山国川の河口部に位置し、周防灘に直接面する地を新たな居城として選定した。中津城の防衛における最大の特筆事項は、堀の水源に川の淡水ではなく「海水」を大々的に引き込んでいる点である。潮の満ち引きによって堀の水位が変動する仕組みを利用し、満潮時には堀が深く広がり敵の侵入を物理的に拒み、海からの物資輸送船が直接城内へ乗り入れることが可能となるよう計算されていた。高松城(香川県)や今治城(愛媛県)と並んで「日本三大水城」の一つに数えられるこの構造は、優れた軍事眼と経済的合理性を併せ持つ官兵衛の築城術の到達点を示している。

合元寺での謀殺事件と旧領主・宇都宮氏の滅亡

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合元寺での謀殺事件と旧領主・宇都宮氏の滅亡

黒田氏が豊前に入国した当初、長年この地を支配してきた城井谷の領主・宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)らは新領主に対する反乱(豊前国人一揆)を引き起こした。官兵衛と長政の親子は激しい戦闘の末にこれを鎮圧し、宇都宮氏に和睦を申し入れた。しかし、将来の火種を残すことを危惧した黒田側は、宇都宮氏を完全に抹殺する冷酷な計画を立案する。天正十六年(一五八八年)、中津城内での酒宴に招かれた宇都宮鎮房は、武装を解除された隙を突かれ、長政の家臣らによってその場で斬殺された。同時刻、城のすぐそばにある合元寺(ごうがんじ)に待機していた宇都宮氏の家臣団約四十名も、黒田軍の急襲を受けて一網打尽にされ、激しい白兵戦の末に全員が討ち取られた。新天地の支配を確立するための、極めて苛烈な政治的粛清劇であった。

血痕が消えなかった合元寺の「赤壁」の伝承Photo: Asturio Cantabrio / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

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血痕が消えなかった合元寺の「赤壁」の伝承

宇都宮氏の家臣たちが惨殺された合元寺における戦闘は極めて凄惨を極め、斬り合いによって飛び散った大量の血しぶきが寺の白壁にべったりと染み付いた。 伝承によれば、戦闘後に寺の僧侶たちが何度壁を白く塗り替えても、下から血の痕が滲み出てきてしまうため、最終的に壁全体を真っ赤な塗料(ベンガラ)で塗りつぶして血痕を隠したとされている。 この合元寺の壁は現在でも「赤壁(あかかべ)」と呼ばれ、鮮烈な朱色に塗られたままで中津城下の通りに建っている。 戦国武将による冷酷な領国経営の裏面と、犠牲となった在地領主の凄絶な最期を、生々しい視覚的記憶として後世に伝え続ける歴史的建造物である。

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