長篠城

ながしのじょう

長篠城

Photo: Bariston / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

長篠城|武田の大軍に囲まれた小さな城。そこからこっそり抜け出し、援軍を呼んで城を救った「鳥居強右衛門(すねえもん)」の壮絶すぎる自己犠牲。

織田・徳川連合軍と武田軍が激突した「長篠の戦い」の前哨戦の舞台。二つの河川が合流する断崖絶壁の地形を利用した防衛構造と、城を死守した奥平貞昌の籠城戦、そして援軍要請のために命を落とした鳥居強右衛門の史実を解説する。

基本情報

名称
長篠城
読み
ながしのじょう
別名
確認できる代表的な別名なし
所在地
愛知県新城市長篠字市場・岩代
築城時期
永正5年(1508)、菅沼元成が築城
築城者
菅沼元成
現在の城郭
建物は残らず、内堀・土塁と河川が天然の要害を形づくる城跡
文化財・指定
国指定史跡
二つの河川と断崖絶壁を利用した天然の要害

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二つの河川と断崖絶壁を利用した天然の要害

長篠城は、奥三河を流れる豊川(旧称:寒狭川)とその支流である宇連川が合流する舌状台地の先端に築城されている。 城の南側と西側は、河川の浸食によって形成された数十メートルの垂直に近い断崖絶壁となっており、物理的に敵が壁を登って侵攻することは極めて困難な地形であった。 城の北側から東側にかけての平坦地には、本丸を中心に複数の曲輪を直線的に配置し、それらを深い空堀と土塁で区切るという防御構造を採用している。 このため、敵が城を攻めるためには、防備が最も厚い北側の正面から力攻めを行う以外に有効な戦術が存在しなかった。 室町時代後期に菅沼氏によって築かれたこの城郭は、三河・遠江・信濃の国境が交差する交通の要衝を扼する軍事拠点として、戦国期を通じて今川氏、徳川氏、武田氏といった強大な勢力の間で激しい領土争いの標的となった。

武田勝頼による包囲網と奥平貞昌の籠城戦

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武田勝頼による包囲網と奥平貞昌の籠城戦

天正三年(一五七五年)五月、三河国への侵攻を進める武田勝頼は、一万五千の大軍を率いて長篠城を包囲した。 当時の長篠城主は、武田氏から徳川氏へ寝返ったばかりの奥平貞昌(後の信昌)であり、城内の兵力はわずか五百程度であった。 武田軍は城の周辺に鳶ヶ巣山砦などの陣地を構築して完全な包囲網を敷き、金山掘り(鉱山労働者)を動員して城の土塁や門を破壊するなどの猛攻を加えた。 これに対し、奥平貞昌は城の地形的優位性を最大限に活用して防衛線を死守し、武田軍の突撃を幾度も撃退した。 しかし、約半月に及ぶ包囲により城内の兵糧は枯渇し、落城は時間の問題という極限状態に陥った。 結果として、この長篠城の頑強な抵抗が武田軍の進軍を長期にわたって足止めすることとなり、織田信長・徳川家康の主力連合軍(約38,000)が設楽原へ到着するための戦略的な時間稼ぎとして機能したのである。

鳥居強右衛門の磔刑と、戦後の廃城措置Photo: Otiai Saheiji Michihisa / Wikimedia Commons / Public domain

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鳥居強右衛門の磔刑と、戦後の廃城措置

籠城戦の最中、奥平貞昌は岡崎城の徳川家康へ援軍を要請するため、足軽の鳥居強右衛門(とりい すねえもん)を密使として派遣した。 強右衛門は武田軍の厳重な警戒網を夜陰に紛れて河川を潜水するなどして突破し、岡崎城に到達して織田・徳川連合軍の出陣を確認する。 しかし、長篠城へ帰還する途中で武田軍に捕縛されてしまう。武田勝頼は強右衛門に対し、「援軍は来ないと城に向かって叫べば命を助ける」と持ちかけたが、強右衛門は城の前に引き出されると「あと数日で援軍が到着する」と事実を大声で叫び、直後に武田軍によって磔(はりつけ)にされて処刑された。 この強右衛門の報告によって城兵の士気は回復し、長篠城は連合軍の到着まで持ち堪えることに成功した。長篠の戦いが織田・徳川連合軍の勝利に終わった後、激しい戦闘によって建造物の大半が損壊した長篠城は修復されることなく放棄され、奥平貞昌は新たな統治拠点として新城城を築城して移転した。 これにより、歴史的戦闘の舞台となった城郭は廃城となったのである。

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