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幕府への配慮と財政難による「石垣のない城」の築造
慶長七年(1602年)、関ヶ原の戦いで西軍寄りの曖昧な態度をとった佐竹義宣は、徳川家康の命により先祖代々の地である常陸国五十四万石から、秋田二十万石へと大幅な減転封を命じられた。 義宣は神明山という丘陵に新たな居城「久保田城」の建設を開始したが、この城には大名の権威の象徴である「天守」が存在せず、さらには城郭の基本とも言える「石垣」すら本丸の一部を除いてほとんど築かれなかった。 これには二つの重大な理由がある。第一に、江戸幕府に対して恭順の意を示し、無用な軍事力を持っているという猜疑心を持たれないようにするための極端な政治的配慮。第二に、領地が半分以下に減ったにもかかわらず、旧領から膨大な家臣団を引き連れてきたため、石垣を積むような大規模な土木工事を行う財政的余裕が全く無かったことである。 その代わり、山を削った土塁と広大な水堀を複雑に組み合わせることで、実戦に耐えうる防衛機能を確保した。



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