小机城

こづくえじょう

小机城

Photo: Saigen Jiro / Wikimedia Commons / CC0

小机城|城を落としたのは「ダジャレの和歌」? 日産スタジアムの隣に眠る都会の竹林要塞・小机城

横浜市の日産スタジアム近くにある小机城は、15世紀前半(永享年間)に関東管領の上杉氏によって築かれ、のちに戦国時代に武蔵国を支配した後北条氏(小田原北条氏)の城となりました。 室町時代における長尾景春の乱での激しい攻防や、その後の後北条氏による南武蔵支配の最重要拠点としての役割を経て、豊臣秀吉の小田原征伐に伴い廃城となった。石垣を用いない関東特有の土の城郭構造が、現代の都市化の波を免れて極めて良好な状態で残存する歴史的背景について記述する。

基本情報

名称
小机城
読み
こづくえじょう
別名
確認できる代表的な別名なし
所在地
神奈川県横浜市港北区小机町
築城時期
15世紀中頃(関東管領・上杉氏の家臣による)
築城者
関東管領・上杉氏の家臣
現在の城郭
ここが、関東の戦国史において重要な役割を果たした「小机城(こづくえじょう)」の跡地です。
文化財・指定
現代になり、周辺の横浜市港北区は激しい宅地開発の波に飲まれ、多くの自然や史跡がコンクリートで覆われました。
太田道灌による包囲戦と和歌を用いた心理的攻略

01

太田道灌による包囲戦と和歌を用いた心理的攻略

文明十年(一四七八年)、関東管領に対する長尾景春の反乱(長尾景春の乱)において、景春方に与した豊島氏や矢野氏らがこの小机城に軍勢を配置して立て籠もった。 これを討伐するため、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌が軍勢を率いて小机城を包囲する。 南側を深い谷に、北側を鶴見川の低湿地に守られた小机城の防御力は極めて高く、道灌の軍勢も城の攻略に数十日を要した。 この軍事的な膠着状態の中、道灌は「小机は まず手習いの はじめにて いろはにほへと ちりぢりになる」という和歌を詠み、敵方の士気を削ぐ心理戦を展開したと記録されている。 城に立て籠もる兵たちが文字通り散り散りになることを予言したこの和歌による精神的な圧迫効果もあり、最終的に小机城は道灌の猛攻の前に陥落した。 この戦闘により、南武蔵における反乱軍の拠点は完全に制圧されることとなった。

後北条氏による南武蔵の統治拠点と強固な空堀の整備

02

後北条氏による南武蔵の統治拠点と強固な空堀の整備

太田道灌による攻略後、戦国時代に入ると小机城は相模国から勢力を拡大してきた後北条氏(小田原北条氏)の支配下に入る。 後北条氏は武蔵国南部(現在の横浜市から川崎市一帯)を「小机領」として編成し、小机城をその広大な領地を統括する行政および軍事の最重要拠点として位置づけた。 城主には北条氏堯や北条氏房など一族の重鎮が配置され、城郭には後北条氏特有の築城技術が惜しみなく投入された。 石垣を一切使用せず、関東ローム層の粘土質な地盤を深く削り出して造られた長大な空堀(からぼり)と土塁が本丸や二の丸を厳重に囲い込み、敵の侵攻ルートを複雑に制限する高度な防御構造が構築された。 現在、高度に都市化された地域の中心にありながら、この後北条氏時代の深くV字に切り立った空堀や土橋の遺構がほぼ完全な形で残存しており、中世城郭の土木技術の実態を実証する学術的価値の高い史跡となっている。

小田原征伐における無血開城と近代の「市民の森」としての保存Photo: Hovering Cat / Wikimedia Commons / CC0

03

小田原征伐における無血開城と近代の「市民の森」としての保存

天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始されると、小机城は小田原城を防衛するための支城網の一つとして豊臣軍を迎え撃つ態勢を整えた。 しかし、豊臣軍の圧倒的な大軍が関東へ侵攻し、八王子城などの主要な防衛拠点が次々と陥落する中、徳川家康の軍勢が小机城に接近する。 城主が小田原城へ詰めて不在であった小机城の守将たちは、抗戦による戦術的意義の消失と領内への被害拡大を危惧し、交戦することなく徳川軍に対して開城(無血開城)を選択した。 これにより、小机城は戦火に焼かれることなくその軍事的役割を終え、直後に発布された廃城令によって放棄された。 長らく山林として放置されていた城跡であったが、昭和後期に開発の波が押し寄せた際、地元住民や歴史研究者による保存運動が展開され、横浜市によって「小机城址市民の森」として公有地化された。 無血での開城という政治的判断と、近代の行政および市民による保護施策が結びつき、中世の土木構造を現代に遺存させた特異な城郭遺構である。

SAME CATALOG

同じ図鑑のほかの記事