{{#hero_card_source}}{{/hero_card_source}}小諸城

こもろじょう

小諸城

Photo: Asturio Cantabrio / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

小諸城|城下町よりも低い位置に本丸が存在する全国的にも珍しい「穴城」。徳川秀忠の関ヶ原遅参の舞台となった歴史

長野県小諸市に所在する小諸城は、武田信玄による縄張りを基礎とし、豊臣政権下で仙石秀久によって近世城郭へと改修された城である。一般的な城郭とは異なり、城下町よりも低い谷底に向かって陣地が構築されている「穴城」としての特異な地政学的構造と、関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の軍事的失態の背景、そして近代文学と結びついた城跡の公園化の経緯について詳述する。

基本情報

名称
小諸城
別名
酔月城、穴城、白鶴城
所在地
長野県小諸市丁
築城
戦国時代(武田信玄による改修)、1590年代(仙石秀久による近世城郭化)
主な築城者
武田信玄、仙石秀久
現在の城跡・建造物の状態
小諸城址懐古園として整備。三の門、大手門(いずれも重要文化財)が現存し、野面積みの石垣が極めて良好な状態で残る。
浅間山の火山灰台地を千曲川が削り出した「穴城」の地形

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浅間山の火山灰台地を千曲川が削り出した「穴城」の地形

日本の城郭の大部分は、防衛上の優位性を保つために平野を見下ろす山頂や丘陵(山城・平山城)に築かれるのが定石である。 しかし、小諸城は城下町の市街地が最も高い位置にあり、そこから城門をくぐって坂を下った谷の底に本丸が存在するという、全国でも類を見ない「穴城(あなしろ)」の構造を持っている。 一見すると敵に上から攻め込まれやすい不利な地形に思えるが、この地形は浅間山の噴火によって形成された脆い火山灰台地(シラス台地)を、千曲川とその支流の沢が数十万年かけて深く削り出して形成された天然の断崖絶壁によって守られている。 本丸の西側は千曲川に向かって垂直に落ち込む数十メートルの深い谷(水の手)となっており、東側の城下町方向からの侵入経路さえ厳重な石垣と門で封鎖してしまえば、外部からの物理的な攻撃を完全に遮断できる極めて強固な要害であった。

関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の本陣と致命的な遅参

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関ヶ原の戦いにおける徳川秀忠の本陣と致命的な遅参

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いに際して、徳川家康の嫡男・徳川秀忠は中山道を進む約三万八千の徳川本軍を率い、この小諸城に本陣を構えた。 秀忠の目的は、上田城に立て籠もる西軍の真田昌幸・信繁(幸村)親子を討伐することであった。 小諸城を前線基地とした秀忠は上田城に対して幾度も攻撃を仕掛けたが、少数の兵力で地形と奇計を操る真田軍の神出鬼没な戦術の前に大軍が完全に足止めを食らってしまう。 結局、上田城を落とすことができず、家康からの急な上洛命令を受けて関ヶ原へ向かって強行軍を開始したものの、九月十五日の本戦には全く間に合わないという致命的な大失態(関ヶ原遅参)を演じた。 小諸城は、次期将軍となるべき秀忠が初めて大軍の総大将として指揮を執りながら、真田軍の前に屈辱的な敗北を味わった歴史的挫折の舞台となったのである。

廃藩置県後の払い下げと、島崎藤村が詠んだ「懐古園」Photo: Raita Futo from Tokyo, Japan / Wikimedia Commons / CC BY 2.0

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廃藩置県後の払い下げと、島崎藤村が詠んだ「懐古園」

明治維新を経て廃藩置県が断行されると、小諸城も廃城となり、建造物の多くが解体・売却された。 城跡は荒れ果て、本丸跡には雑草が生い茂る状態となったが、小諸の元藩士や地元の有志たちが「城跡を後世に残すべきである」と立ち上がり、資金を出し合って城跡の敷地を買い戻した。 彼らは本丸跡に歴代藩主や城の鎮守を祀る神社を建立し、一帯を「懐古園(かいこえん)」と名付けて近代公園として整備した。 明治32年(1899年)、この懐古園を訪れた詩人の島崎藤村は、苔むした野面積みの石垣と千曲川の雄大な景色に感銘を受け、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」で始まる有名な『千曲川旅情の歌』を詠み上げた。 軍事拠点としての役割を終えた小諸城は、旧藩士たちの城郭保存の熱意と近代文学の融合によって、郷愁を誘う文化的な空間として現代にその姿を留めている。

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