清洲城

きよすじょう

清洲城

Photo: baggio4ever / Wikimedia Commons / CC BY 3.0

清洲城|織田信長が天下布武の足掛かりとした尾張の中心拠点。桶狭間の戦いへの出陣から、跡目争いである清洲会議の開催、そして町全体が移転した「清洲越し」による完全消滅までの変遷を辿る

尾張国の政治的・軍事的な中心として機能し、若き日の織田信長が拠点とした清洲城。桶狭間の戦いという歴史的転換点の舞台となり、信長横死後も豊臣政権の方向性を決する重要な会議が開かれた。しかし、江戸時代に入るとその姿を完全に消すこととなる。激動の時代における同城の歴史的役割と、その終焉について記録する。

基本情報

名称
清洲城(きよすじょう)
別名
特になし
所在地
愛知県清須市
築城
1405年(応永12年)頃
主な築城者
斯波義重
現在の城跡・建造物の状態
模擬天守、清洲公園として整備(開発により本来の城跡の大半は消失)
桶狭間の戦いへの出陣と幸若舞『敦盛』

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桶狭間の戦いへの出陣と幸若舞『敦盛』

織田信長が今川義元の数万とも言われる大軍を打ち破った桶狭間の戦いは、この清洲城から始まった。圧倒的な兵力差を前に、城内の家臣たちが籠城か降伏かで激しく動揺する中、信長は軍議を開くこともなく、突如として幸若舞の『敦盛』を舞い始めた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と死生観を謡い終えると、陣貝を吹かせ、立ったまま湯漬け(現在の茶漬けに近い食事)を素早くかき込み、わずかな供回りだけを連れて馬に飛び乗り城を飛び出した。籠城戦という常識を覆し、生死を賭けた奇襲作戦の決断が下された、歴史の転換点における極度の緊張感が城内に充満していた。

豊臣政権の権力構造を決定づけた「清洲会議」

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豊臣政権の権力構造を決定づけた「清洲会議」

1582年の本能寺の変で織田信長が横死した後、織田家の跡継ぎと領地の再分配を取り決めるための重要な評定が清洲城で開催された。 これが歴史に名高い「清洲会議」である。 筆頭家老である柴田勝家が信長の三男・信孝を推したのに対し、明智光秀を討ち取って発言力を増していた羽柴(豊臣)秀吉は、信長の嫡孫にあたるわずか3歳の三法師(後の織田秀信)を抱きかかえて現れ、強引に後継者として認めさせた。この会議の結果、織田家内部における秀吉の優位が確定し、後の天下統一へと繋がる新たな権力構造が清洲城の一室で形作られることとなった。

町ごと名古屋へ移転する「清洲越し」による解体

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町ごと名古屋へ移転する「清洲越し」による解体

戦国時代を通じて尾張の中心であり続けた清洲城だが、徳川家康が覇権を握った江戸時代初期にその命運は尽きる。 家康は水害に弱く防衛上の不安が残る清洲を捨て、新たに名古屋城を築くことを決定した。この際、単に城を移すだけでなく、清洲の城下町に住む武士や町人、さらには寺社仏閣や橋の木材に至るまで、都市の機能を丸ごと名古屋へと移転させる「清洲越し」という徹底した国家プロジェクトが実行された。 これにより、かつて信長が覇道を歩み始めた巨大な城郭と活気ある城下町は地上から完全に消滅し、一帯は田野へと還っていった。

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