金山城(太田金山城)

かなやまじょう(おおたかなやまじょう)

金山城(太田金山城)

Photo: AkaneM / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

金山城(太田金山城)|関東の定説を覆す総石垣の要塞と、山頂に築かれた祭祀の池

群馬県太田市に所在する金山城(新田金山城)は、室町時代に岩松氏によって築かれ、後に下克上を果たした由良氏(横瀬氏)が最盛期を築き上げた中世山城である。上杉氏や武田氏、後北条氏といった強大な軍事勢力からの猛攻をことごとく退けた極めて高い防衛力と、関東地方の城郭は土塁が主体であるという従来の歴史的定説を覆した大規模な石垣建築の実態について記述する。

基本情報

名称
金山城(太田金山城)
読み
かなやまじょう(おおたかなやまじょう)
別名
太田金山城
所在地
群馬県太田市金山町
築城時期
文明元年(1469年) 岩松家純による
築城者
岩松家純
現在の城郭
復元された石垣、日ノ池・月ノ池、大手虎口
文化財・指定
記事本文に文化財・指定情報の明記なし
上杉謙信の十度にも及ぶ猛攻を退けた難攻不落の防衛網Photo: Taketarou / Wikimedia Commons / CC BY-SA 1.0

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上杉謙信の十度にも及ぶ猛攻を退けた難攻不落の防衛網

金山城は、関東平野の北西部に独立してそびえる標高235mの金山(かなやま)の全山を要塞化した巨大な山城である。 文明元年(1469年)に新田一族の岩松家純によって築かれたが、戦国時代に入ると重臣であった横瀬氏(後に由良氏と改姓)が主君を追放して城主の座を奪い、下克上によって城郭の規模を最大化させた。 由良氏の統治下において、金山城は関東における重要拠点として周辺の強国から再三にわたって標的とされた。 特に越後の上杉謙信は、関東管領としての威信をかけて金山城を十度近く包囲・攻撃したと記録されているが、険阻な地形と高度な防御網に阻まれ、一度も武力で陥落させることはできなかった。 武田勝頼の軍勢による攻撃をも退けたその防衛実績は、金山城が関東屈指の難攻不落の要害であったことを歴史的に証明している。

関東の山城の定説を完全に覆した「石垣」と排水システム

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関東の山城の定説を完全に覆した「石垣」と排水システム

関東地方の戦国期の城郭(滝山城や鉢形城など)は、石材の調達が困難であることや、関東ローム層の地質を活かして土塁と空堀を主体とする「土の城」として構築されるのが一般的であった。 しかし、平成四年(一九九二年)から太田市によって開始された大規模な発掘調査において、その歴史的定説を覆す重大な遺構が地中から発見された。 金山城の中心部(本丸、二の丸周辺)において、山の斜面を削り出して地元の岩石(チャート)を高く積み上げた大規模な石垣や、通路に敷き詰められた精巧な石敷きが次々と出土したのである。 西国の織豊系城郭に見られる野面積みとは異なる在地独自の石積み技術が用いられており、城内には雨水を効率的に排出するための石組みの排水溝(暗渠)まで完備されていた。 中世の関東地方において、これほどまでに高度な石造りの土木技術が導入されていた事実は、城郭史研究に極めて大きな影響を与えた。

山頂の巨大な水源地にして祭祀空間「日の池・月の池」

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山頂の巨大な水源地にして祭祀空間「日の池・月の池」

山城において最大の弱点となるのが兵糧と「水」の確保である。金山城にはこの弱点を克服するため、本丸のすぐ南側に「日の池(ひのいけ)」と「月の池(つきのいけ)」と呼ばれる巨大なため池が設けられていた。 特に日の池は直径約15mの円形をしており、周囲と底部には石が隙間なく敷き詰められている。 発掘調査の結果、これらの池は単なる籠城用の飲料水確保の目的だけでなく、雨乞いや戦勝祈願を行うための神聖な「祭祀場」として機能していたことが判明している。 池の底からは、儀式に用いられたと推測される鉄砲の弾、古銭、小刀、かわらけ(素焼きの盃)などの祭祀遺物が多数出土した。 軍事的な緊張が続く要塞の中心部に、こうした大規模な宗教・祭祀空間が計画的に組み込まれている構造は、戦国武将の精神性と城郭の複合的な機能を示す極めて貴重な事例である。

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