掛川城

かけがわじょう

掛川城

Photo: by Monado / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

掛川城|山内一豊が拡張した近世城郭と、日本初の本格木造復元天守

東海道の交通の要衝を扼する遠江国の防衛拠点・掛川城。 今川氏真が立て籠もった徳川家康との長期包囲戦、山内一豊による近世城郭への大拡張、および現存する二の丸御殿の建築的価値と、平成期における日本初の本格木造天守復元の経緯を記録する。

基本情報

名称
掛川城
読み
かけがわじょう
別名
なし
所在地
静岡県掛川市掛川
築城時期
室町時代
築城者
今川氏の命で朝比奈氏が築城
現在の城郭
1994年復元の本格木造天守閣と現存する掛川城御殿
文化財・指定
国重要文化財(掛川城御殿)
今川氏真の立て籠もりと徳川軍による半年に及ぶ長期包囲戦

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今川氏真の立て籠もりと徳川軍による半年に及ぶ長期包囲戦

戦国時代前期、掛川城は今川氏の重臣である朝比奈氏が城代を務め、東海道を通って遠江国から三河国へと至る重要ルートを抑える堅城として機能していた。 永禄十一年(一五六八年)、甲斐国の武田信玄が駿河への侵攻を開始すると、今川氏の当主である今川氏真は本拠地の駿府を追われ、朝比奈泰朝が守るこの掛川城へと逃げ込んだ。 同時に、遠江への侵攻を開始した徳川家康の軍勢が掛川城を包囲し、激しい攻防戦が展開されることとなる。朝比奈泰朝と城兵は地の利を活かして徳川軍の猛攻を再三にわたって退け、包囲戦は約半年に及んだ。 最終的に武田信玄の軍事的脅威を危惧した家康から和睦が提案され、氏真の身の安全と引き換えに掛川城は無血開城される。 これにより戦国大名としての今川氏は実質的に滅亡し、掛川城は徳川家の遠江支配の最前線拠点へと移行することとなった。

山内一豊による近世城郭への改修と現存する二の丸御殿Photo: by Monado / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

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山内一豊による近世城郭への改修と現存する二の丸御殿

天正十八年(一五九〇年)、徳川家康が関東へと移封されると、豊臣秀吉の命により山内一豊が五万一千石で掛川城に入封した。 一豊は中世的な砦の様相を残していた掛川城に対し、大規模な近世城郭への改修工事を断行する。丘陵上に石垣を巡らせ、本丸に複合式望楼型の天守を造営し、堀と土塁を拡張して城下町の整備(町割り)と大井川の治水工事を並行して推進した。 現在見られる掛川城の基本的な縄張りは、この一豊の時代に確立されたものである。また、江戸時代を通じて掛川藩の政務の中心となったのが「二の丸御殿」である。 現在の建物は安政元年(一八五四年)の安政東海地震で倒壊した後に当時の城主・太田資功によって再建されたものであり、書院造の意匠を備えた大広間や藩主の公邸・私邸部分がほぼ完全な形で現存している。日本国内において城郭内の御殿建築が現存しているのは、京都の二条城、高知の高知城、埼玉の川越城(本丸御殿の一部)、そしてこの掛川城の四例のみであり、幕末の武家政治空間の実態を示す極めて貴重な文化財(国指定重要文化財)となっている。

史料に基づく日本初の「本格木造天守」の復元と市民の寄付

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史料に基づく日本初の「本格木造天守」の復元と市民の寄付

山内一豊が築き、江戸時代を通じて維持されてきた掛川城の天守であったが、前述の安政東海地震による激しい揺れで倒壊して以降、藩の財政難もあって再建されることはなかった。 明治維新の廃城令を経て城郭の建物が失われた後も、天守台の石垣のみが残される状態が約百四十年間続いた。 平成に入り、掛川市は天守の再建を決定するが、当時の城郭復元で主流であった鉄筋コンクリート造ではなく、当時の図面や発掘調査のデータ、さらには一豊が後に築城した高知城の天守構造などを綿密に考証し、日本古来の伝統的工法を用いた「木造での完全復元」を選択した。 平成六年(一九九四年)に総工費約十億円をかけて完成したこの天守は、戦後の日本における「本格木造復元天守」の第一号となった。 特筆すべきは、建設費用のうち約五億円が市民からの寄付(浄財)によって賄われた点である。軍事施設としての歴史を終えた城郭が、綿密な考証と地域住民の文化的支援によって歴史的景観を取り戻した近代城郭保存の画期的な事例である。

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