平戸城

ひらどじょう

平戸城

Photo: 小池 隆 / Wikimedia Commons / CC BY 4.0

平戸城 | 長崎県の平戸島に建つ松浦氏の居城。徳川政権下で江戸中期に異例の築城許可を得て完成

長崎県の平戸島に建つ平戸城は、鎌倉時代からこの地を支配してきた水軍の将・松浦氏の居城である。徳川政権下での生き残りをかけた日の岳城の破却から、約百年を経た江戸時代中期に幕府から異例の築城許可を得て完成に至るまでの政治的経緯、および海防の最前線としての城郭構造について詳述する。

基本情報

名称
平戸城
別名
亀岡城、日の岳城
所在地
長崎県平戸市岩の上町
築城
1599年(慶長4年・日の岳城)、1704年(宝永元年・平戸城として再建開始)
主な築城者
松浦鎮信、松浦棟
現在の城跡・建造物の状態
亀岡公園として整備。模擬天守や復元された櫓群が建ち、狸櫓(たぬきやぐら)など一部の遺構が現存する。
徳川家康への恭順を示すための「日の岳城」破却

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徳川家康への恭順を示すための「日の岳城」破却

平戸城の前身である「日の岳城」は、慶長四年(一五九九年)に松浦鎮信によって築城が開始された。 しかし、完成直前の慶長十八年(一六一三年)、鎮信は突如として自らの手でこの城に火を放ち、完全に破却してしまう。 この極端な行動の背景には、豊臣秀吉の寵愛を受けていた松浦氏が、新たに覇権を握った徳川家康から謀反の疑いをかけられることを極度に恐れたという政治的判断があった。 松浦氏は朝鮮出兵において第一軍として活躍しており、強力な水軍の兵力を保持していたため、幕府の警戒の対象になりやすかったのである。 苦心して築き上げた城を自ら焼き払うことで、幕府に対する絶対的な恭順と二心がないことを物理的に証明し、松浦家という一族の存続を図る高度な政治的決断であった。

約百年後の「異例の再築城」と山鹿素行の軍学

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約百年後の「異例の再築城」と山鹿素行の軍学

日の岳城の破却以降、松浦氏は城を持たず、「陣屋(御館)」と呼ばれる小規模な屋敷で平戸藩の政務を行っていた。 しかし、約一世紀が経過した宝永元年(一七〇四年)、第五代藩主・松浦棟の時代に、江戸幕府から突如として城の再築許可が下りる。 武家諸法度によって新規の築城が固く禁じられていた江戸時代中期において、この築城許可は極めて異例の措置であった。 これは、松浦氏が幕府の要職(寺社奉行など)を歴任して高い信頼を得ていたことや、東シナ海に面する平戸が沿岸警備の重要拠点として幕府に再認識されたためとされている。 再建された平戸城の縄張り(設計図)は、当時の著名な軍学者である山鹿素行の兵学理論に基づいて設計された。 実戦的な平山城の構造を取り入れ、海と山に囲まれた自然の地形を防御線として最大限に活用した、山鹿流軍学の実践例とも言える城郭が完成したのである。

貿易港を監視する海防の要衝と「狸櫓」の伝承

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貿易港を監視する海防の要衝と「狸櫓」の伝承

平戸城は、平戸瀬戸に突き出した丘陵上に位置し、三方を海に囲まれた天然の要害である。この地理的条件は、城の防衛力を高めるだけでなく、平戸港を出入りする船舶の監視を容易にするものであった。 江戸時代初期までオランダやイギリスの商館が置かれ、国際貿易港として繁栄した平戸の歴史的背景を色濃く反映した立地と言える。 また、平戸城内には「狸櫓(たぬきやぐら)」と呼ばれる現存建造物が残されている。伝承によれば、築城の際に床下に住み着いていた狸が人間の姿に化けて藩主の前に現れ、「櫓に住ませてくれるなら城を永遠に守護する」と約束したとされる。 現在もこの櫓には狸が祀られており、厳格な軍事施設の中に在地信仰や民間伝承が組み込まれているという、城郭建築における特異な習俗を証明する事例となっている。

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