八王子城

はちおうじじょう

八王子城

Photo: Mocchy / Wikimedia Commons / Public domain

八王子城|なぜ難攻不落の巨大山城が「たった1日」で落ちたのか? 八王子城の血塗られた悲劇と滝の伝説

八王子城を、なぜ難攻不落の巨大山城が「たった1日」で落ちたのか? 八王子城の血塗られた悲劇と滝の伝説という切り口から読み直します。一般的な城の概要を並べるのではなく、この城でしか成立しない出来事と、現在の姿とのずれを入口にします。

基本情報

名称
八王子城
読み
はちおうじじょう
別名
確認できる代表的な別名なし
所在地
東京都八王子市元八王子町
築城時期
天正10年(1582年)頃 北条氏照による
築城者
頃 北条氏照
現在の城郭
天才・北条氏照が造った「関東最大の要塞」 八王子城は、標高445メートルの深沢山(現在の城山)全体を要塞化した巨大な山城です。
文化財・指定
記事本文に文化財・指定情報の明記なし
天才・北条氏照が造った「関東最大の要塞」

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天才・北条氏照が造った「関東最大の要塞」

八王子城は、標高445メートルの深沢山(現在の城山)全体を要塞化した巨大な山城です。山の斜面には無数の平坦地(曲輪)が階段状に造られ、敵の行く手を阻む深い空堀や、関東の山城には珍しい見事な「石垣」が張り巡らされていました。 城主の北条氏照は、外交と軍事の両面で北条氏を支えた天才です。彼は、織田信長や豊臣秀吉の強大な軍事力が関東へ迫っていることを察知し、それに対抗しうる「絶対に落ちない最強の防衛拠点」としてこの八王子城を築城しました。 しかし、その備えは皮肉にも、最悪のシナリオを引き寄せることになります。

圧倒的すぎる大軍の前に「1日」で陥落

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圧倒的すぎる大軍の前に「1日」で陥落

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めが始まります。氏照本人は主君を守るために小田原城へ籠城していたため、八王子城の守備は残された家臣や、領民、女性や子供たちなど約3千人に任されていました。 そこに襲いかかったのが、前田利家や上杉景勝、真田昌幸らが率いる約1万5千の豊臣・北国連合軍でした。 どんなに城が強固でも、守る兵士が不足していては機能しません。 しかも豊臣軍は、夜陰に乗じて険しい裏山(搦手)から奇襲をかけるという冷酷な戦術をとりました。 6月23日の早朝に始まった総攻撃により、難攻不落を誇った八王子城は、なんとその日の夕方までに完全に制圧されてしまったのです。

滝の水が血で染まった「御主殿の滝の悲劇」

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滝の水が血で染まった「御主殿の滝の悲劇」

八王子城の陥落は、日本の城郭史の中でも類を見ないほど凄惨なものでした。城のメインエリアである「御主殿(ごしゅでん)」に追い詰められた北条方の武将やその妻、子供たちは、敵の手に落ちることを恥とし、次々と自刃しました。 多くの女性たちが、御主殿のすぐ脇にある滝(御主殿の滝)の上で首を切り、あるいはそのまま滝壺へと身を投じました。その数はあまりにも多く、滝の水は三日三晩、血で真っ赤に染まり、麓の川(城山川)の水までが赤く濁ったという恐ろしい伝承が残されています。 地元では長年、落城の日にあたる6月23日には「赤飯(赤いご飯)を炊かない」という風習が残っていたほど、この悲劇は深く人々の心に刻まれました。 現在、美しく復元された曳橋の奥に静かに流れる御主殿の滝は、戦国の無情さを今に伝える最も生々しい慰霊の場所となっています。

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