有岡城

ありおかじょう

有岡城

Photo: 投稿者が撮影 / Wikimedia Commons / Public domain

有岡城

兵庫県伊丹市に所在する有岡城は、摂津国を支配した荒木村重が大改修を施した城郭である。城のみならず、城下町全体を巨大な土塁と堀で包み込む「惣構え(そうがまえ)」を採用した日本最古級の防衛都市であった。織田信長への突然の謀反から黒田官兵衛の幽閉、そして城主の逃亡による凄絶な一族処刑へと至る戦国期屈指の凄惨な籠城戦の経過を記載する。

基本情報

名称
有岡城
別名
伊丹城
所在地
兵庫県伊丹市伊丹
築城
鎌倉時代(伊丹氏)、のち1574年(天正2年)に荒木村重が改修
主な築城者
伊丹氏、荒木村重
現在の城跡・建造物の状態
国指定史跡。JR伊丹駅前に本丸跡の石垣や土塁の一部が現存する。
城と町を完全に一体化させた日本最古級の「惣構え」

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城と町を完全に一体化させた日本最古級の「惣構え」

元々は摂津国の有力国人である伊丹氏の居城(伊丹城)であったが、天正二年(一五七四年)にこれを攻め落とした荒木村重は、名称を「有岡城」と改め、前代未聞の大改修に着手した。 村重は武士が駐屯する本丸や二の丸だけでなく、商人や職人が暮らす町屋、さらには寺院に至るまでの広大な城下町全体を、長大な堀と土塁でぐるりと囲い込んだのである。 この都市防御システムは「惣構え(総構え)」と呼ばれ、後年の小田原城や江戸城で本格的に採用される防衛構造であるが、有岡城はその先駆けとなる日本最古級の実例であった。商業都市としての機能を保ちながら、数万の軍勢の包囲に耐えうる自給自足の独立要塞空間を構築した村重の先見性が伺える設計である。

説得に赴いた黒田官兵衛の幽閉と救出

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説得に赴いた黒田官兵衛の幽閉と救出

天正六年(一五七八年)、荒木村重は突如として主君・織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城した。この時、村重と旧知の仲であり、信長の家臣であった黒田官兵衛(孝高)が単身で有岡城へ赴き、謀反を思いとどまるよう説得を試みた。しかし村重は官兵衛の提案を拒絶し、彼を城内の劣悪な土牢(地下牢)に一年近くにわたって監禁したのである。信長は官兵衛が裏切ったと誤認して激怒したが、約一年後に有岡城が落城した際、家臣たちによって土牢から救出されたことでその忠誠が証明された。しかし、長期間の劣悪な監禁生活により官兵衛の頭髪は抜け落ち、足の関節に重い障害を抱え、生涯歩行に支障をきたすこととなった。

城主の逃亡と六条河原における一族郎党の凄絶な公開処刑

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城主の逃亡と六条河原における一族郎党の凄絶な公開処刑

信長の大軍に包囲されてから約十ヶ月後、有岡城の戦況は絶望的な状態に陥っていた。ここで荒木村重は信じ難い行動に出る。自らの妻子や多くの家臣を城内に置き去りにしたまま、数名の側近だけを連れて密かに夜の闇に紛れて城を脱出し、尼崎城へと逃亡してしまったのである。大将を失った有岡城は間もなく開城・降伏した。激怒した信長は、城内に残されていた村重の妻子や一族、重臣の家族ら百二十二名を京都の六条河原へと引き立て、民衆の前で全員の首を刎ねるという極めて凄惨な公開処刑を実行した。さらに、下級武士の妻や子供たち数百名も家屋に押し込められ、生きたまま焼き殺されるという戦国史に残る大量虐殺が引き起こされた。堅牢な惣構えの城は、城主の逃亡という形で最悪の結末を迎えることとなったのである。

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