明石城

あかしじょう

明石城

Photo: KishujiRapid / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

明石城 | 西国大名を監視する徳川幕府の最前線拠点。伏見城や船上城からの建築資材のリサイクルによる急速な築城、天守が建造されなかった事実、そして客将として滞在した宮本武蔵による城郭内の庭園造営と町割りの歴史的経緯を解説する。

兵庫県明石市に所在する明石城は、江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の命により、西国大名の反乱に備えるための防衛拠点として築造された。廃城となった他の城郭から建造物を移築する合理的な建築手法、天守台がありながら天守が建てられなかった経緯、そして剣豪として名高い宮本武蔵が都市計画や造園に深く関与したという文化的な側面について検証する。

基本情報

名称
明石城
別名
喜春城(きしゅんじょう)、錦江城
所在地
兵庫県明石市明石公園
築城
1619年(元和5年)
主な築城者
小笠原忠真(幕府の命による)
現在の城跡・建造物の状態
兵庫県立明石公園として整備。本丸跡に日本に現存する十二基の三重櫓のうちの二基である坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)が国指定重要文化財として現存。
西国大名を牽制する幕府の防衛ラインと築城命令Photo: 663highland / Wikimedia Commons / CC BY 2.5

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西国大名を牽制する幕府の防衛ラインと築城命令

元和三年(一六一七年)、信濃国松本から明石十万石へと移封された小笠原忠真(ただざね)は、徳川家康の曾孫にあたる人物である。当時の幕府は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後も、毛利氏や島津氏など強大な力を持つ西国の外様大名に対する警戒を緩めていなかった。そのため、第二代将軍・徳川秀忠は、西国から大坂へ至る陸上・海上の交通の要衝である明石海峡を見下ろす赤松山に、幕府の威信をかけた新たな城郭を築くよう忠真に命じた。幕府は本多忠政などを普請の指導に派遣し、さらに幕府の公金から銀一千貫を支援するという手厚い対応をとった。明石城は、姫路城とともに西からの脅威を物理的に封じ込めるための、徳川政権による強固な軍事防衛ラインの要石として機能することが期待されていた。

伏見城と船上城から移築された「リサイクル」の二つの櫓

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伏見城と船上城から移築された「リサイクル」の二つの櫓

現在、明石城の本丸跡には、国指定重要文化財である「坤櫓(ひつじさるやぐら)」と「巽櫓(たつみやぐら)」という二基の立派な三重櫓が建ち並んでいる。実はこれらの建造物は、明石城のために新築されたものではなく、他の城から解体して運ばれてきた「リサイクル建築」である。坤櫓は一国一城令によって廃城となった伏見城から、巽櫓は明石城の完成前に小笠原氏が一時的に居城としていた船上城(ふなげじょう)からそれぞれ移築されたと伝えられている(近年の解体修理における墨書等の調査でも移築の痕跡が確認されている)。幕府の強い要請によって短期間での城郭完成が急務であったため、既存の建築資材を効率的に転用する合理的な手法が採用されたのである。また、本丸には巨大な天守台が築かれたが、幕府への遠慮や財政的理由から最終的に天守は建てられず、これら四隅の三重櫓が天守の代用として城の威厳を示した。

剣豪・宮本武蔵による城内の「樹木屋敷」造営と町割り

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剣豪・宮本武蔵による城内の「樹木屋敷」造営と町割り

明石城の歴史において特筆すべき文化的なエピソードが、剣豪として知られる宮本武蔵の関与である。武蔵は築城主である小笠原忠真の客将として明石に滞在しており、単なる武術の指南役としてだけでなく、城郭の建設や都市計画における「土木・造園の技術者」としても活躍した。記録によれば、武蔵は明石城の城下町の町割り(区画整理)を担当し、さらに城内に藩主の遊息所である「樹木屋敷(じゅもくやしき)」という庭園を自ら設計・造営したとされている。武蔵が設計した庭園は、後に明石城本丸に設けられた御殿の庭園の基礎となったと考えられている。生涯負けなしの剣豪という荒々しいイメージの裏側で、彼が高い空間設計能力と美的センスを持つ文化人であったことを、明石城の歴史的記録が現代に証明している。

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