佐世保のカメラ店から全国的な通販企業へ。
海の向こうから届いた文化と、今も街に残る歴史の痕跡。
扇形の人工島、秘密結社の石柱、戦争の痕跡が残る街。歴史に名を残す長崎の風景には、よく知られた物語とは違う一面がある。海と島々を巡りながら、その意外な裏側を歩いてみよう。
出島といえばオランダ。しかし、この扇形の島に最初に住んだのはポルトガル人だった。
1636年、幕府は長崎の町に暮らしていたポルトガル人を出島に移した。ところが1639年にポルトガル船の来航を禁止すると、出島は住む人を失う。1641年、今度は平戸のオランダ商館を移転させた。
出島がオランダの窓口になったのは、完成から5年後。日本史でおなじみの光景は、幕府の方針転換から生まれた。
1945年8月9日。原爆を積んだB29が最初に向かったのは長崎ではなく、小倉だった。
投下目標の選定はその前から変わっていた。春には京都や横浜も候補に入り、7月25日の投下命令では広島・小倉・新潟・長崎の4都市が指定された。8月9日の第一目標は小倉。しかし上空を覆う煙や雲で目標を確認できず、機体は第二目標の長崎へ向かった。
長崎市内で当初の照準点に指定されていたのは、中島川に架かる「常盤橋(ときわばし)」から「賑橋(にぎわいばし)」付近。商業施設が集まる市の中心部だった。ところが長崎上空も厚い雲に覆われ、当初の照準点を確認できなかった。燃料も残り少なく、爆撃機には目標を探し続ける余裕がなかった。
そのとき、雲の切れ間から市北部の工業地帯がわずかに見えた。三菱製鋼所や三菱兵器製作所が集まる浦上地区だった。爆撃手はそこを目標に原爆を投下した。1945年8月9日午前11時2分、原爆は目視された工業地帯よりさらに北側の松山町上空約500mで炸裂した。
候補都市の変更、小倉から長崎への転進、そして市中心部から浦上への照準点のずれ。何度も目標が変わった末に、原爆は浦上の街を壊滅させた。
長崎空港へ降り立つ飛行機の下には、かつて人が暮らす島があった。
大村湾の箕島には田畑と集落があり、漁業や農業を営む人々の暮らしが続いていた。空港の建設に伴って住民は移転し、島は大きく造成された。1975年、海上に滑走路を持つ長崎空港が開港する。
現在の航空写真では、海の中に長い滑走路が伸びている。かつての島の輪郭を探すのは難しいほど、風景は変わった。
グラバー園の一角に、コンパスと定規を組み合わせたような印が刻まれた石柱がある。フリーメイソンの象徴として知られる意匠だ。
石柱は、かつて長崎の外国人社会で活動したフリーメイソンのロッジにゆかりがあるとされる。幕末から明治にかけての長崎には、英国をはじめ各国の商人や船員が集まり、貿易だけでなく社交クラブや結社の文化も持ち込んだ。
グラバー園を歩くと、西洋建築の華やかさに目が向く。だが足元の小さな石柱にも、国際港・長崎に集まった人々の知られざる足跡が刻まれている。
明治になってキリスト教の禁制が解かれた。それでも、教会に戻らなかった人々がいた。
禁教の時代、生月島や五島列島では、家ごとに祈りの言葉や儀礼を受け継いできた。生月島に残る「納戸神」は、その信仰が生活の内側にあったことを示す。祭具や聖なるものを納戸に安置し、家族と地域のつながりの中で守ってきた。
禁教が解かれた後、カトリック教会に合流した集落もあれば、先祖伝来の祈りを続けた集落もあった。同じ信仰から出発した人々が、異なる道を歩んだ。

佐世保の戸尾市場には、岩壁に口を開けた穴の中で商売をしてきた店が並ぶ。商店街の名は「とんねる横丁」。
店先のシャッターを上げると、奥にはコンクリートで整えられた横穴が続く。この場所は戦時中に掘られた防空壕だった。戦後、店を構える場所を求めた人々が、その空間を使い始めた。
空襲から身を守るための穴が、魚や野菜を売り、日々の買い物をする場所になった。佐世保では、戦争の遺構がそのまま暮らしの一部になった。
長崎市の山王神社には、片脚だけで立つ鳥居がある。最初から一本で造られたわけではない。
1945年8月9日の原爆で、鳥居の片側は吹き飛ばされた。残った柱と笠木が、崩れずに立ち続けた。石に残る傷と、失われた半分の空間が、爆風の強さを物語る。
周囲の町が変わっても、この鳥居の姿は変わらない。長崎の被爆を伝える場所の一つとして、今も訪れる人を迎えている。
佐世保の海を見下ろす丘に、高さ約136メートルの塔が3本立っている。まるで巨大な鉛筆を地面に突き立てたようだ。
旧佐世保無線電信所、通称・針尾送信所。完成は1922年。3本の鉄筋コンクリート塔を三角形に配置し、長い波長の電波で遠くの艦船と通信した。100年以上前の施設とは思えない大きさだ。
塔の足元に立つと、その高さがよく分かる。かつて海軍の通信を支えた構造物が、現在は佐世保の空にそのまま残っている。
九十九島と書くのだから、島は99個――と思ったら大違い。佐世保の九十九島は、一般に208の島々として紹介されている。
九十九という言葉には、文字どおりの99だけでなく「数え切れないほど多い」という意味がある。小さな岩礁まで点在する海を前にすると、昔の人がその名を付けた気持ちも分かる。
展望台から見えるのは、青い海を埋める緑の島影。数字を知ってから眺めると、九十九島の名前がますます面白くなる。
江戸時代の長崎には、外国人の居住区が二つあった。オランダ人の出島と、中国人の唐人屋敷である。
中国船による貿易が盛んになると、幕府は1689年、来航した中国人を集めて住まわせる唐人屋敷を設けた。周囲を囲まれた広い敷地には住居や生活施設があり、商人たちはここを拠点に交易に携わった。
出島が海に突き出した人工島だったのに対し、唐人屋敷は町の中に造られた囲い地。同じ長崎でも、幕府は外国人の居場所を別々に管理していた。
佐世保のカメラ店から全国的な通販企業へ。
長崎の飲食事業をルーツに全国展開したちゃんぽんチェーン。
長崎で誕生したとんかつ専門店。
長崎造船所が三菱の造船事業の原点となった。
長崎創業のカステラの老舗。
1624年に長崎で創業したカステラの老舗。
佐世保で開業したオランダの街並みを再現したテーマパーク。
長崎の醸造文化に根差した調味料ブランド。
佐世保地域から広がった和食レストラン。
長崎県波佐見町で発展し全国へ流通した日用陶磁器。
長崎で親しまれる洋食の盛り合わせ。発祥には諸説ある。
佐世保で発展した手作りハンバーガー文化。
国土地理院の計数。従来の971島とは集計方法が異なる。
全国屈指のアジの産地。公開前に統計表と全国順位を再照合。
「フグといえば下関」の印象と異なる養殖の産地。
※採用済みのランキング項目。2024年の漁獲・養殖値は公開前に原統計表と照合してください。
| No. | 小ネタ | ここが面白い |
|---|---|---|
| 01 | 長崎の精霊流しは爆竹だらけ! | 精霊船が進む街に爆竹が鳴り響く、にぎやかな送り行事。 |
| 02 | 長崎くんちにはオランダ船と中国の龍が登場 | 諏訪神社の神事に、異国文化を取り込んだ奉納踊が登場する。 |
| 03 | 長崎のミルクセーキは飲み物ではない | 氷を細かく砕いて作り、スプーンで食べる店が多い。 |
| 04 | オランダ坂の「オランダ」は国籍を問わなかった | 当時の長崎では西洋人を広く「オランダさん」と呼ぶことがあった。 |
| 05 | カステラの底のザラメが好き! | 底に残るザラメの食感を楽しむ人が多いが、商品によって製法は異なる。 |
| 06 | 長崎の皿うどんにはソースをかける | ウスターソースを加える食べ方が根付いている。 |
| 07 | 長崎の墓石には金色の文字が多い | 墓碑銘を金色にする習慣が見られる。地域や墓地によって差がある。 |
| 08 | 長崎市は自転車に厳しい街 | 坂と階段の多い地形で、移動には徒歩や交通機関が重要になる。 |
| 09 | 九十九島は99個ではない! | 佐世保の観光で知られる九十九島は208島と数えられる。 |
| 10 | 眼鏡橋を造ったのは中国から来た僧侶 | 1634年、黙子如定が架橋したと伝えられる。 |
| 11 | オランダ商館は出島より先に平戸にあった | 1609年に平戸で開設され、1641年に出島へ移された。 |
| 12 | 島原には平成になって生まれた山がある | 雲仙・普賢岳の噴火活動で平成新山の溶岩ドームが形成された。 |
| 13 | 天草四郎には埋蔵金伝説がある | 黄金の十字架などの財宝伝説があるが、発見の証拠は確認されていない。 |
| 14 | 河童のミイラは本物? | 河童の遺物と称される伝承がある。生物学的な証拠という意味ではない。 |
| 15 | 対馬から韓国・釜山が見える日がある | 天候・視程が良ければ朝鮮半島を望めることがある。 |