SPECIAL 03 / HONNŌ-JI

明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか?

400年以上たっても、決定的な答えはない。
ならば、残っている史料から独自の視点で考察していく。

明智光秀肖像/本徳寺所蔵・Public Domain
THE QUESTION

本能寺の変は、
「なぜ」だけが残った事件だ。

天正10年(1582)6月2日未明。明智光秀の軍勢が京都の本能寺を襲撃し、織田信長は自害した。

結果だけ見れば単純です。家臣が主君を討った。しかし、肝心の動機を光秀本人が説明した確実な史料は残っていません。

そのため、本能寺の変には「怨恨」「天下への野望」「四国政策」「足利義昭」「朝廷」など、さまざまな説が生まれました。

問題は、どの説なら事件直前の光秀の行動を最も無理なく説明できるかです。

72 HOURS

事件直前の3日間を見る。

5月29日信長、安土を出発して京都へ。本能寺を宿所とする。
6月1日光秀、丹波亀山城を出陣。表向きは中国方面の羽柴秀吉への援軍。
6月1日 深夜明智軍は老ノ坂を越え、京都方面へ進む。
6月2日 未明本能寺を急襲。信長、二条御所の信忠も死亡。
FIVE THEORIES

世間一般に言われている5つの説を、
「何を説明できるか」で比べる。

本能寺の変は、どの説にも「説明しやすい部分」と「説明しきれない部分」があります。ここでは、説の知名度ではなく、事件直前の光秀の行動をどこまで説明できるかを比べます。

01

怨恨説

信長からの侮辱や冷遇が積み重なり、光秀が復讐したという説です。ドラマでは最も分かりやすい一方、母を見殺しにされたといった有名な逸話の多くは後世の創作とされています。

説明できること なぜ光秀が「信長を討つ」という極端な行動に踏み切ったのか

主君への強い反感や屈辱が実際に積み重なっていたなら、反逆そのものの感情的な動機は説明しやすくなります。

それでも残る疑問 光秀が信長を討つほどの怨恨を抱いていたことを、どこまで史料で確認できるのか

信長からの侮辱や母親を見殺しにされたという有名な逸話には、後世に成立したものも多くあります。光秀が信長に強い恨みを抱き、それが本能寺の変の直接的な動機になったと確認できる同時代史料は乏しく、怨恨説だけで事件を説明するには根拠が弱いと考えられます。

02

野望説

光秀自身が天下を狙ったという考えです。変の直後、光秀は京都・近江を押さえ、諸大名へ協力を求めています。政権を作る意志があったこと自体は不自然ではありません。

説明できること 変の直後に、すぐ政治・軍事行動へ移ったこと

信長を討ったあと、光秀は次の権力を取りに動いています。単なる衝動的な復讐だけではなく、政権を意識していた可能性と整合します。

それでも残る疑問 天下を狙うなら、なぜ準備がこれほど不十分だったのか

諸大名の支持を十分に固めた形跡はなく、野望だけでは山崎の戦いまで短期間で追い込まれた政治的準備不足を説明しにくいです。

03

四国政策転換説

光秀は長宗我部元親との外交交渉に深く関わっていましたが、信長は四国政策を変更し、元親との関係を悪化させます。

2014年に公表された『石谷家文書』などから、光秀側が長宗我部との調整を進める一方で、信長が四国出兵へ動いた過程が具体的に見えるようになりました。

説明できること 変の直前、光秀が抱えていた具体的な政治危機

長年築いた長宗我部との外交ルートが崩れれば、光秀自身の面目や織田政権内での立場にも影響します。「事件直前に何が悪化していたか」を具体的に示せる点が、この説の強みです。

それでも残る疑問 四国問題だけで、主君殺害まで踏み切るのか

政治的打撃が大きかったとしても、それだけで反逆を決断したと断定できる史料はありません。強い背景要因ではあっても、単独の原因とは限りません。

04

足利義昭関与説

京都を追われた室町幕府第15代将軍・足利義昭が、信長打倒を働きかけたという説です。光秀はかつて幕府と関係があり、義昭側の反信長活動も続いていました。

説明できること 光秀が単独ではなく、反信長勢力と結びついていた可能性

義昭には信長を排除したい政治的理由があり、光秀にも旧幕府との接点がありました。反信長勢力の存在そのものは説明できます。

それでも残る疑問 義昭が光秀に本能寺襲撃を命じた証拠がない

両者の利害が一致していた可能性と、共同計画を立てていたことは別です。変の具体的な共謀を示す決定的史料は確認されていません。

05

朝廷黒幕説

信長と朝廷の関係を背景に、公家や朝廷側が光秀を動かしたという説です。京都を舞台とした事件だけに、長く注目されてきました。

説明できること 本能寺の変を、京都の政治権力関係の中で捉えられること

信長・朝廷・公家社会の緊張関係を事件の背景として考えることで、光秀個人の感情だけではない政治事件として見ることができます。

それでも残る疑問 朝廷が光秀に本能寺襲撃を命じた証拠は確認されていない

朝廷が信長に警戒感を持っていた可能性はあります。ただし、朝廷が本能寺の変を計画し、光秀に実行させたことを示す確かな証拠はありません。

WHY SHIKOKU MATTERS

四国政策では、
何が変わったのか。

交渉から軍事侵攻へと方針が変わっていく四国政策を表現したイメージ

四国政策の転換をイメージした生成画像

まず大前提

信長は当初、長宗我部元親の勢力拡大を利用して、四国平定を進めようとしていた。

信長が天下統一を進める中、四国では長宗我部元親が勢力を急速に拡大していました。信長は当初、その勢力拡大を一定程度認め、元親が四国で勢力を広げることを、自らの天下統一にとって利用できる動きとして見ていました。

そして、その信長と元親の間を取り持っていたのが明智光秀です。光秀は信長の意向を長宗我部側へ伝え、元親側の考えを信長へ伝える交渉・調整役を担っていました。

織田信長 天下統一を進める
明智光秀 交渉・調整
長宗我部元親 四国で勢力を拡大

ところが、この関係が変わります。

01

当初は、長宗我部の勢力拡大を一定程度認める

信長は、元親が四国で勢力を広げることを認める姿勢を見せていました。光秀は両者の間に入り、この関係を保つための交渉を続けます。

02

信長が方針を変え、長宗我部に支配地域の縮小を求める

ところが、信長はその後、長宗我部の勢力をそのまま認める方針を改め、元親に対して支配地域を縮小するよう求める方向へ動きます。

03

光秀は、元親に新しい条件を受け入れるよう説得する

信長の方針が変わったあとも、光秀は交渉役として元親側との調整を続けました。光秀にとっては、信長と長宗我部の関係を破綻させずにまとめられるかが重要な局面になります。

04

しかし信長は、交渉の途中で四国出兵を決める

1582年、信長は三男・織田信孝らを中心とする四国遠征軍を準備します。つまり、光秀が交渉で解決しようとしている最中に、信長は軍事力で長宗我部を従わせる方向へ踏み出したことになります。

当初 長宗我部の勢力拡大を一定程度認める
→
政策転換後 支配地域の縮小を求め、最終的には四国出兵へ
これが、光秀にとって四国政策転換が重要だった理由です。

光秀は、信長と長宗我部の関係を維持するために交渉を続けていました。ところが、その交渉がまとまる前に信長は軍事行動へ踏み切ろうとします。つまり、光秀が長く進めてきた外交方針そのものが、事件直前に大きく覆されたのです。

四国政策転換説が注目されるのは、この出来事が古くからの漠然とした不満ではなく、本能寺の変の直前に進行していた具体的な政治問題だからです。

OUR HYPOTHESIS

5つの説を重ねると、
ひとつの流れが見えてくる。

5つの説は、どれか一つを選べば他が消える関係ではありません。事件直前の光秀には、複数の要因が同時に重なっていたと考える方が自然です。

01

「調整役」としての光秀が、立場を失いつつあった

光秀は、朝廷・幕府・長宗我部氏などとの交渉や調整に関わりながら織田政権内で存在感を高めてきました。

ところが、四国政策をめぐって信長は長宗我部元親への方針を転換し、光秀が続けていた調整は事実上行き場を失います。『石谷家文書』から見えるのは、単なる「面目」の問題ではなく、光秀が得意としてきた政治的役割そのものが揺らいでいた可能性です。

02

黒幕がいなくても、光秀自身には動く理由があった

足利義昭や朝廷が光秀に命令したと考えなくても、本能寺の変は説明できます。

光秀は旧幕府や朝廷と接点を持ち、織田政権の中でも外交・儀礼・調整を担ってきた人物です。信長の政治が自分の役割と合わない方向へ進んでいると感じていたなら、「誰かに命じられた反乱」ではなく、自分自身の判断で政権の流れを変えようとした可能性があります。

03

そして6月2日、二度とないかもしれない機会が現れた

羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と対陣し、柴田勝家は北陸方面にいました。徳川家康は少数の供を伴って畿内を旅行中でした。

一方、信長は京都の本能寺に少数の供回りで滞在し、後継者の信忠も京都にいました。そして光秀自身は、中国方面への出陣命令によって軍勢を率いて京都近辺を移動できる立場にありました。

「信長と信忠を同時に討てる」「自分だけが大軍を動かせる」という条件が、偶然に近い形で重なったのが6月2日だったと考えられます。

OUR VIEW

筆者は、こう考える。

本能寺の変の動機を直接語る、光秀自身の確実な記録は残っていません。

それでも、事件直前の状況を重ねると、一つの筋道は見えてきます。

光秀は、四国政策の転換などによって、自分が織田政権の中で担ってきた「調整役」としての立場が失われていく危機感を抱えていた。そこへ、信長と信忠が少数の兵で京都に滞在し、自分だけが大軍を率いて近くを通るという、二度とないかもしれない機会が現れた。

私は、この「立場を失う危機」と「一瞬の機会」が重なったことが、光秀を決断させた最大の理由ではないかと考えます。

十分な根回しがなく、その後の政権構想も盤石ではなかったのは、計画が何年も前から練られていたからではなく、好機が突然現れたためだった。そう考えると、変の直後に光秀が急いで味方を集めようとしたことともつながります。

本能寺の変は、長年準備された巨大な陰謀ではなく、追い込まれつつあった光秀が、1582年6月2日に現れた千載一遇の機会を逃さなかった事件だったのではないでしょうか。

注記

本能寺の変の動機については現在も研究上の議論があります。本ページでは、複数説と事件直前の時系列を比較したうえで、「光秀自身の立場への危機感」と「6月2日に生まれた一瞬の機会」が重なったという仮説を筆者の考察として提示しています。

主な参考資料

  • 亀岡市「歴史上最大の下克上『本能寺の変』とは」
  • 熊田千尋「本能寺の変の再検証―先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合」
  • 谷口克広「怨恨説から野望説、黒幕説まで 本能寺の変の真相に迫る」
  • 呉座勇一ほか『明智光秀と細川ガラシャ―戦国を生きた父娘の虚像と実像』
  • 国立国会図書館サーチ/レファレンス協同データベース